玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(11)

2015年04月06日 | ゴシック論
 イシドーラの物語がついに終わり、アロンソがジョン・メルモスに向かってさらに話を続けようとするとき(この調子でいくと『放浪者メルモス』は決して終わらない小説になってしまう)、放浪者メルモスその人が二人の前に姿を現す。もちろん小説を終結させるためである。
 期限が来たのである。「“魂の大敵”から人間の定めを越えて生き延びる能力を得」「何の障碍もなく遅れもなく空間を往来し」……あらゆる超能力を与えられたメルモスにも期限が迫っている。彼と運命を取り替える人間を見つけて、自由放免となるための期限が。そうでなければメルモスは地獄の劫火に焼かれる身となるのだ。
 しかし、そんな人間は一人もいなかった。メルモスは述懐する。
「放浪者メルモスとその運命を取り替えた者は、絶えてなかった。そんな人間を探してな、世界の隅々までを遍歴したが、誰一人いなかった、この世を我がものとせんがため魂は要らんと言う奴は!」
 この放浪者メルモスの最後の言葉は、メルモス本人にとっては絶望の言葉であるが、むろん人類にとっては希望の言葉なのである。ここで作者マチューリンは新教の牧師としての本性を見せているのだとも言い得る。
 また三巻第十七章で、放浪者メルモスが現実世界への批判を繰り返す場面でも、マチューリンはわざわざ次のような注を付けて弁明を行っている。
「余輩が登場人物中最悪の者共が吐露せる最悪の言辞をば捉えて、これらが余輩自身の意見であると云う不正不実の論難が見られるので、此の場を御借りして一言読者諸兄に申し上げておきたい。この異邦の者が体する意見は吾輩がそれとは全く逆のものであり、従って吾輩は意図的にそれを悪魔の手先をして語らしめたのである」
 本当だろうか。本当にそれだけの意図で放浪者メルモスに語らせているのだとしたら、どうしてボードレールがメルモスへの共感を語るなどということが起こり得たのだろう。どうして今日の我々がメルモスの“人間的な”魅力に惹かれるなどということがあり得るのだろうか。
マチューリンは別の小説の序文で次のようにも書いている。
「……もし私に何らかの才能があるとすれば、それは陰鬱なものをいや増しに暗くし、悲しいものを発展させ、人生をその極限において描き、そして魂が不法かつ涜神的なものの深淵の縁でうちふるえるときの情熱の葛藤を表現する才能である」
 放浪者メルモスが魅力的なのは、まさにマチューリンがここで言っているような才能によって彼が描かれているからなのである。単にメルモスは悪魔の言葉を代弁しているのではない。まさに「魂が不法かつ涜神的なものの深淵の縁でうちふるえる」ようにメルモスは語るのである。メルモスは単なる悪魔の手先ではあり得ない。
 そして、マチユーリンが自らの才能について語っている表現のあり方こそが“ゴシック的心性”と呼ばれるべきものであり、ゴシック的なものを今日まで生き延びさせている、人間にとって固有の心性なのだと言わなければならない。