もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

女子サッカーW杯の放映に思う

2023年08月02日 | 報道

 女子サッカーW杯で、撫子ジャパンが予選リーグを首位通過した。

 開幕直前まで同大会はテレビ放映されないとされていたが、直前になってNHKが放映することとなった。女子W杯がテレビ放映されないのは、女子サッカー人気が低迷していること以上に、放映権料の高騰が主な理由であるらしい。しからば放映権料は如何ほどかと調べると、確かな金額は非公開であるが、情報雀の記事を斜め読みした限りでは「男子カタール大会は約350億円で今回大会は約120億円」程度であるらしい。
 120億円が高いか安いかは論が分かれるところで、NHKの放映にも賛否の意見が寄せられているとされる。賛否の内容まで分からないものの、反対意見を想像する限りでは「受信料の使途として不適切」的なものであろうが、NHKは「世界に注目されて、国民的に関心が高いスポーツを視聴者にお届けするのは公共メディアのひとつの役割」としている。
 澤穂希選手は出場しているの?程度の興味・知識しかない自分には、賛否をとやかく言う資格は無いであろうが、ここはNHKの言い分に軍配を上げたい。
 CM収入をベースにしている民法では、女子サッカーの人気低迷を考えれば120億円分のCMを負担してくれるスポンサーが期待できない以上、身銭を切ってまで放映することはできないだろうし、もし放映権を購入すれば経営者は株主から背任罪で訴えられる可能性も有る。
 受信料収入を主要財源とするNHKは、スポンサーの顔色に忖度せずに事業を行える強みを持っているので、今回の放映も視聴を希望する人数の多少を問わずに決定できたのであろうし、極論するならば、もし視聴者の一人にでも好影響を与えることができたならば、放映は成功と評価しても良いのではないだろうか。

 公営放送自体を疑問とする人、受信料の支払いに反対する人は少なからず存在する。かく言う自分も、「緑なき島」の制作や放映権売却、高校生の「模擬東京裁判」などに関するNHKの姿勢に対しては注文があるが、通信手段がネット中心になった今でも、全国津々浦々にまで張り巡らされた放送網は維持すべきであると思っている。
 例えば、空襲警報等の一斉伝達には有効な手段であろうし、大東亜戦争においては軍の指揮通信が途絶して孤立した部隊が、玉音放送で終戦を知り戦闘行動を停止したケースもあるとされている。
 NHKは、今回の女子サッカーW杯放映で見せた「公共放送の役割」という主張が、真の輝きを持つように制度改革に努めて欲しいものである。


Big motor事案に思う

2023年07月29日 | 報道

 Big motor社の不祥事が連日報じられている。

 自分は、単にBig motor社のガバナンスの問題と捉えているが、先日、そこそこ著名なコメンテーターがTVで「監督官庁の責任は重い」と発言されていた。
 経済に暗いので以下の記述は正確ではないかもしれないことを予めお断りして書き進めるが、
 さて中古車販売の監督官庁は?を知らないので調べてみると、「中古車販売」の許認可は古物営業法によって、都道府県の公安委員会であるらしい。そもそも古物営業法は、故買によって犯罪者が盗品を換金することを防ぐとともに、犯罪捜査の利便性を高めるために整備されたものらしく、申請者が暴力団関係者や住所不定者で無ければ誰でも認可されるほどの緩さで、事業者に求められているのも盗品等の疑いがある場合の警察への通報くらいであるように理解した。しかしながら、今回の事案に対して経産省がBig motorへのヒアリングを実施しているところを観れば、認可した公安委員会以外にも、同社の活動を監督する官庁があるのかも知れないが、経産省の監督は杜撰な審査で保険金を垂れ流していた保険会社に向けられたものであろうと推測している。閑話休題。
 本日の主題は、コメンテーターの言動に関してである。
 同人は、過去の官製談合や放送事業と電波法の関係などについて、官の許認可制度を厳しく否定されていた。特に電波法による周波数の割り当ては自由な表現・報道を制限するという趣旨から、全ての電波を市場に委ねるべきであるとしていた。そうなれば、金満中国の国営企業が大手を振って日本の通信・放送事業を我が物にする事態は当然に予想されるだろうことは全く意に介する気配も無く、テレ朝・TBSの偏向番組擁護に終始していた。国の骨幹を担う電波についてすら官の関与を否定する一方で、Big motor社に対する官の監督責任を問うのはいかにも、耳障りの良い論調で身過ぎ良すぎする御都合主義と云わざるを得ないものに思える。

 自由経済社会では、個人の経済活動に対する官の関与を極力小さくすること目標にし、日本でも岩盤規制の撤廃が合言葉としてもてはやされた時期があり、漸くに新規起業や他業種への参入が容易となったと思っている。規制の撤廃は、企業の経済活動は市場原理で行われるとともに企業の存続・淘汰も市場の自浄作用に期待するものであるために、Big motor経営者のように悪意を持った商業活動も市場から排除されない限り淘汰されないという宿命を持っていると思っている。
 平成28年のデータでは、全国の企業等数は約386万社とされているので、この全てに官が目を光らすことは物理的にも不可能で、明るみに出た違法行為の対処・パッチ充てが精一杯ではないだろうか。
 以上のことから、「過去の主張は置いて、何かあれば官の責任を追及する」コメンテーターに些かの不信感を持つ場面であった。


八重山毎日新聞の社説に思う

2023年07月23日 | 報道

 八重山毎日新聞の社説が波紋を広げている。

 事の顛末は、同新聞が社説で《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきではないか。そんな意見があってもおかしくない》と述べたものの、批判を受けて謝罪したというものである。
 未だに前時代的な主張がなされることにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、引用記事中に赤太で表記した個所である。
 社説とは、新聞社の主張であり紙面全体の編集・記事の根底を成すものであると思うので、そのように他者の意見を借りる形で責任を逃れるべきでは無い様に思う。書くとすれば、《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきである》と新聞社(主筆)の意見を主張すべきではないだろうか。閑話休題
 記者が取材対象に質問する場面が放映されることが多いが、記者が「一部には○○のような意見もありますが・・・」と他人の意見を借りる形で質問する場面が多い。そのたびに自分は、”誰がそう主張するのだろうか”、”本当にそういう主張があるのだろうか”、”記者の個人的意見では”と常々疑問に思っている。かって石原慎太郎(当時東京都知事)氏の囲み取材で、同様の問いかけをした記者に石原氏が「誰が?」と問いかける場面を見たが、記者は「いえ、一般論で」と不得要領の答えをしていた。
 何故に記者は「自分は○○と考えますが」とか「××社の世論調査では○○ですが」と前提を明らかにして質問しないのだろうか。
 メディアの取材や編集に暗いので憶測の域を出ないが、日本のメディアには、「記者に害が及ばないように一般論として取材」したものを「責任が曖昧な編集で色付けする」ことが常態化しているのではないだろうか。
 近年は聊かに改善されたようであるが、日本の報道には署名記事が極めて少ないと聞いたことがある。ウオーターゲート疑惑を明るみにし、ニクソンを辞任にまで追い込んだ取材記者は、疑惑が疑惑で終わった場合にはメディアでの居場所を失うとともに社会的にも抹殺されるであろう危険を冒してでも署名記事で報じ続けた。

 八重山毎日新聞の社説では、《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきである》とすれば、主張の是非はともかく社説としては成立したであろうと思うし、批判に対しても毅然と対応できたであろう。
 「この程度ならウケル・許されるだろう」「書いてしまってゴメンナサイ」で済ませる八重山毎日新聞社は、社説と云う重みを理解されていないのだろうし、ジャーナリストとしても未熟の誹りを免れないように思う。


市川猿之助報道に思う

2023年06月28日 | 報道

 市川猿之助氏が自殺ほう助の疑いで逮捕された。

 事の起承は取り調べや裁判で明らかにされると思うが、事件の発端に関しては些かの違和感を持っている。
 これまでのところ週刊誌が「猿之助氏のパワハラ」を報じたことが発端とされているようであるが、今ではパワハラの有無に関しての考証・追加取材を報じるものは無く、本人の自殺未遂と云うことも加わってかパワハラは既成の事実とされている。これは、発信元以外の報道各社が、事実関係を追加取材することも無く「週刊誌によると・・・」と際限なく続報し続けたことが大きいように思える。確かに「週刊誌によると・・・」は引用に過ぎない正確な報道であり、若しパワハラが事実無根であったとしても引用者に責は及ばないと考えているのであろうが釈然としないし、もしパワハラ行為が真実でなかった場合には発信元と同様の責を問われるべきではないだろうか。
 スクープに対して真偽追求よりも、出し抜かれた報道機関が負けじとよりセンセーショナルに報道することを「提灯を点ける」と称し、心あるジャーナリストはそれに類する記事を「提灯記事」と呼んで戒めたとされている。
 また、かっては大方の読者も、タブロイド紙やゴシップ誌の報道に対して、「眉唾」・「話半分」と斜に対処する理性があったが、公党が国会審議の場で週刊誌記事を根拠として政府や閣僚を攻撃することが当たり前となって、週刊誌の報道は雑誌の品格を問わずに凡てが真実とされるように様変わりしてしまったように思える。
 歯医者や床屋の待合室に置かれた週刊誌を眺めただけの経験であるが、記事に登場する暴露・糾弾者は「数年前に袂を分かったA」や「見聞きしたB」である場合が殆どである。週刊誌は筆禍訴訟が起きた場合には「取材には自信を持っており・・・」とコメントするが、判決では敗訴する場合も多い。また、当事者を「A」や「B」とするのは一様に取材源の秘匿・保護とするものの、果たして実在しているのだろうかとの不信感もある。

 永田町では数年前に、野党議員を揶揄する「週刊誌を読み上げるだけの簡単なお仕事です」というジョークが流行したとされるが、今や「有権者は週刊誌の記事を盲目的に信じるので、政策を主張するよりも週刊誌ネタを活用する方が簡単です」と進化しているのかも知れない。
 猿之助氏を巡る報道が悲劇的な結末を迎えた今、件の週刊誌の記者・デスクは「自分・自社の記事で社会正義が行われた」と胸を張っているのだろうか。できれば、「些かの誇張が老い先短い老人を殺し、有為な青年の将来を奪った」と臍を噛んでいて欲しいものである。


ネット作法を学ぶ

2023年06月19日 | 報道

 本日の産経紙面で、ネット作法に関して自戒すべきワードを教えられた。

 東大大学院の鳥海不二夫教授は、《情報を得るのはそもそも楽しむ行為であり、気持ちの良い情報に浸る一方、実はどういう情報を観たいかを自己決定すらできない》。
 ハーバード大の法学者キャス・サンスティーン氏は《偶然の出会いと共有される経験が大事で、自分が選ぶつもりの無かった情報に曝されず社会の多くが共通経験を持たなければ、社会は分断して社会問題への対処は困難になる》
と、それぞれ述べておられるとし、産経紙は《この風潮を助長するのは(検索履歴などから)アルゴリズムで利用者の嗜好に沿うとみられる情報を推薦する「アテンションエコノミー」という経済モデルである》と続けている。
 数年前までは、検索エンジンでの表示は閲覧・アクセスの総数順に並べられていたが、現在は前述のアルゴリズムによって利用者個々の検索履歴をもとにした個人別表示順位が付されているかのように感じられる。
 自分を振り返れば、将に両氏の述べた状態に陥りつつあるようで、一つの事象の詳細を調べる場合は異なる複数の論調の記事を見つけて読むようにしてきたが、年齢の所為だろうか、例えば赤旗の記事を読み続けるためには相当な努力が必要となってきた。
 かって、ユリウス・カエサルは《人は、自分の見ようとするものしか見ない》と喝破したが、AIが利用者に忖度して好ましい情報しか与えないようになってくれば、ネット内で接する情報は自分の好みに沿ったものに限られ、それを信じることで特定階層の支持者・構成員となり、結局は社会の分断化に手を貸すことに繋がるように思える。

 孔子は「良薬は口に苦けれど病に利あり、忠言は耳に逆らえど行いに利あり」と諭し、古人も自分の様な無学者用に「良薬、口に苦し」とイロハ加留多にしてくれている。
 情報が多くなればなるほど、真実はより曖昧になってくると思っている。情報の分析官は、種々雑多な情報を精査して真実に辿り着く訓練をするとされるが、我々もAIが与える情報が全てではないことを知らなければならない時期に来たようである。