2020+1パラリンピックが閉幕した。
自己批判するならば、これまでパラリンピックにさほど関心を持たずに過ごしてきたが、巣ごもりの今回は相当な時間・関心を以て応援(観戦)したように思う。その中で、競技者が障害を負った背景や障害克服の経緯、とりわけ障害をものともしない強靭な精神力に感銘を受けた。また、インタビューでは、これまで支援してくれた人や社会に感謝する言葉はあっても、健常者を対象に整備された社会インフラに抗議したり、改善を要求するような言葉を聞くことは無かったように思う。表現は適切でないと思うが、パラリンピックに出場できた選手は、ある程度恵まれた環境にある・若しくは獲得できた人で障碍者の平均値ではないだろうとは思うものの、彼等は社会が歩み寄ってくれることを期待する以上に、それを克服する努力と強靭な精神力を持っていることを示しているように思えた。
翻って我が身は、社会に対して「何と不平・不満を持って・述べて」いることかと忸怩たる思いが残る期間でもあった。
本日の産経抄で知ったことであるが、パラリンピックの原点は、終戦後間もない1948(昭和23)年7月のロンドンオリンピック開会式当日に、ロンドン郊外の病院で開催された戦傷者のアーチェリー大会とされ、前回の東京大会にも傷痍軍人が参加されていたそうで今回大会でもアフガン紛争の傷痍軍人が多数参加している。オリンピックは、古代ギリシャで競技大会開催当日は戦闘を止めて競ったことが原点とされ近代オリンピックも意思を継いで平和の祭典とされているが、残念ながら全世界平和裡に開催されたことは無い。意地悪く、戦争が有れば戦傷者が生まれるのが当然で、それらの人々に競技大会を提供する目的からパラリンピックが生まれたとするのは深読み・曲解に過ぎるだろう。
これで、TOKYO2020は閉幕であるが、今回の強行の意義・功罪はどのように総括されるのだろうか。開会以前から取り沙汰されているコロナ拡大懸念に加えて、既に一部では経費や施設の活用を取り沙汰する主張も報じられている。コロナ感染者数の動向や費用については数字で示されるために争点としては判り易いが、数字を離れた功罪、例えば世界各国の日本評価や国民の高揚感等の受け取り方については、各個人で様々であるだろう。
自分としては、世界公約を果たし得たこと、コロナに負けない日本を発信し得たことの方を大きく評価したいと思っている。また、オリンピックでは世界に挑戦する日本の若い力を目の当たりにしたこと、パラリンピックでは障害の程度を理解し障碍者の意識の一端を知り得たことで、大きな収穫を得たTOKYO2020と受け止めている。