妻は趣味で社交ダンスをしている。
生徒確保の一環であろうと邪推しているが、ダンス教室の講師から「夫婦でされている方も多いので、ご主人も連れてきたら」と声を掛けられるらしいが、生来のリズム音痴に加え猫背に固まった姿勢ではと固辞している。
妻の趣味が長続きしていることに些かの敬意とからかいを込めて、時折に「ダンサー」との敬称で呼んでいる。
そんな自分が、先日「ダンサー」デビューを果たした。ここまで書けば「ハハァー」とお気付きの人も多いだろうが、デビューしたのは「段差ー」である。「段差ー」の顛末は、短い階段を降り切ったところに更に5センチほどの段差があったのに気付かず、前のめりに転んでしまった。若い時には簡単にリカバーできたであろうし、足元を注意深く見ておれば何程のことも無い段差であるが、とっさに反応できなかったものである。
自分も「段差―」かと自嘲したが、このギャグは使えるゾ?と思って得意満面に妻子の前で披露したら、案に相違して微苦笑の首尾、より以上の御小言を頂戴してしまった。
”段差に躓いて骨折したり寝たきりになる”との警鐘には、それこそ耳に胼胝ができるほどに接していたが、成る程と身に沁みた一事であった。思うに、衰えを認めたくない脳(意識)が身体的な衰えをカバーすべき注意力や視覚信号を拒絶するためであろうか、点滅する青信号で横断歩道に踏み出したものの途中で赤信号に変わり立往生する同世代人を目撃したこともある。
「寿」を付ける気分ではないが、長寿社会にあっても傘寿を過ぎれば確実に老人である。洟垂れ小僧時には、60歳前後のご隠居様からの叱責に「クソ爺!」と応じていたが、かのご隠居様よりも長生きしている。青少年が穏健になった今、面と向かって「クソ爺」呼ばわりされることは無いが、彼等にしても衰えを自覚しない老人に対しては心中に同様の感覚を持っているだろうことは想像に難くない。
「目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず(by時代遅れー河島英五)」で生きたいものである。
意気軒昂な老人という形容が誉め言葉とされるが、内実は「意気(だけ)軒昂」の婉曲表現ではと反省した一事であった。
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