もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

岸田総理襲撃事件に思う

2023年04月17日 | 歴史

 選挙運動中の岸田総理に対するテロ攻撃が起きた。

 要人に対するテロは安倍元総理に続くもので、それも1年間に2度も現職総理が標的とされたことに、驚きと怒りを覚えるとともに暗い世相への序奏だろうかと案じている。
 今回のテロリストの主張や背景は、次第に明らかとなるであろうが、犯人が現時点で完全黙秘していることから核心的な政治テロかとも思っている。
 浅沼稲次郎氏を刺殺した少年は、父親の属する自衛隊を否定する社会党の主張を嫌悪したためとされており、安倍氏銃撃犯は家庭崩壊の遠因として安倍氏と統一教会の関係を挙げている。
 しからば、両名は何を根拠に犯意を固めたのだろうかを考えると、「市井の噂」を盲目的に信じたように思える。現在の「市井の噂」の代表は本ブログを含むSNSと思えるが、そこには「根も葉もない推論」と「発信者の独善」に満ちている。そしてそこに共通しているのは、要人を含む個人名を「呼び捨て」にしているように思える。
 明治維新以前の文字資料にあっては、例え敵対関係にある人物でも位階や敬称を付けて記述されているのに対し、ある程度言論が擁護されるようになった明治維新前後~大東亜戦争終結にあっては決起の檄文やテロ予告の斬奸状などで呼び捨てが始まり、戦後にあっては左翼者が敵対思想者を貶める目的で常用するようになって一挙に定着したと思う。現在では、要人を呼び捨てにすることがあたかも知識人であるとの認識からであろうか、猫も杓子も「安倍が・岸田が」が氾濫している。
 自分は、例え高名な学者の著書であっても帷幕の高官や敵対者を呼び捨てにしている場合は、著者の偏狭な志向・思考と割り引いて読むことにしているが、一般的には読者は「呼び捨てが許されるほどの悪人」との印象を持つのではないだろうか。

 自分だけの特質かも知れないが、文章は書き進むうちに高揚して不要な修飾を用いるようになり、それに呼び捨てが加われば高揚は激高にまで変化し不要な修飾も過剰な修飾に変化する危険性がある。そのために本ブログを始める前に、少なくとも「個人名の呼び捨ては止める」ことと「推論を断定表現しない」ことを自分に課した。
 「安倍が・岸田が」と書き・口にすることは、自分の怒り・不平・不満のはけ口にはなるであろうが、聞き手・読み手を無用に刺激して、無垢な青年の心情をかき乱し、世情の荒み・荒廃にまで手を貸しているように思えてならない。


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