大阪府知事が3連休期間中、兵庫県との往来自粛を要請したことが波紋を広げている。
大阪府知事の主張は「大阪・兵庫の両府県で見えないクラスター連鎖と感染源の不明な症例が増加し、特に兵庫県では1人の感染者が平均して他人にうつす人数が1を超えていることからオーバー・シュートを防止するため」と明快である。一方の兵庫県知事は「大阪の状況も同じであるのに、事前の相談もなく矛先を兵庫に向けるのか?」となにやら歯切れが悪い。両者を比べてみると、「果断の大阪府知事(45歳)」「従来の根回し拘泥の兵庫県知事(75歳)」と見ることも可能で、この自粛(県境封鎖)が完全に行われたとしても効果があったか否かは新型肺炎終息後の検証に待たねばならないが、対処要領が確立されていない新たな事象について「考えられることは全てやろう」という姿勢と、「石橋を叩いても渡るまい」という両首長の政治手法のせめぎ合いと見ている。両府県の都市部は生活圏が融合しているために、完全な実施は困難であろうと思うものの、武力を以て武漢を封鎖した中国、州兵を配置して州間移動を禁止しているアメリカ、人気の消えたパリ・ローマの映像を見るかぎりでは、まだまだ日本の封鎖・人的移動の禁止は甘すぎるように感じられる。イベントや集会の自粛を主催者に判断させるとした政府と専門家会議の決定を”丸投げ”と批判する向きが多いように感じられるが、そう主張する人々は政府が強権を以て禁止することを求めているのだろうかと不審に思う。外出禁止令や店舗の閉鎖を実施している国には、公権力による私権制限と違反者に対する罰則が定められているために禁止・強制が可能であるが、私権制限ができない日本では主催者の判断に任せることしかできないと思う。若し政府が禁止としたところで、罰則がないために横紙破りする人間(主催者)は必ず出現するだろう。
大正デモクラシー時の1913(大正13)年に渡仏した藤田嗣治は、個人を賛美・謳歌する周囲の芸術家たちが、翌年に勃発した第一次世界大戦に際して躊躇なく入営する姿に驚愕したと云われる。そこには国策が私権を制限することは当然と考える思想が定着しているものと考えれば、国民が食糧品店と薬局以外の営業禁止や外出禁止令を冷静かつ必然と受け入れていることが理解できる。私権は国家が存在・承認することで成立するもので、国家が破綻すれば私権も失われるという当然の理論に立っているものと思う。対外戦争や内戦で領土内が戦場となり、国家と私権が一夜にして吹き飛んだ経験は殆どの国が持っており、そのような事態を長らく経験していないのは、西南戦争を最後とする日本と南北戦争を最後とするアメリカくらいであるが、アメリカは軍人の生命(最高の私権)を犠牲にしてでも国策を遂行する意思を持ち続けている。日本は私権が国家に超越するという幻想を持ち続けている唯一の国では?と考えるものである。
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