大東亜戦争開戦の日を前に、開戦の経緯を検証する報道が増えている。
これまでのところ、開戦は「三国同盟締結を契機とする軍部の独走」とする従来の繰り返しが殆どであるが、開戦の経緯をもう少し中期的に見る冷静な主張も散見されるようになった。
年表的に記すと、1931(昭和6)年柳条湖事件を契機とした満州事変、1932(昭和7)年満州国建国、1933(昭和8)年国際連盟脱退、であるが、1936年(昭和11年)に日本とドイツの間で締結された日独防共協定が対英米戦を必然とした契機ではないかと捉えている。
最初にお断りするが、本稿の目的は、協定を締結した広田弘毅氏の糾弾や東京裁判の正当視ではなく、政治・言論・民意の全てが、軍部をして事変~戦争に突入させたとの真意である。
日独防共協定は軍部の主導による軍事同盟の前段階とされているが、それは以後の変遷を知った後付けの解釈で、締結は伸張著しいソ連の共産主義に対して、欧州ではドイツが極東では日本が防潮堤となることで、欧州(特にイギリス)とアメリカを協定に取り込み英米との関係修復の手段にしようという政治・外交判断が基となっている。
このことは、協定締結時の外務大臣・総理大臣であった広田弘毅氏を文官として唯一人東京裁判でA項訴追した連合国の判断にも見て取れる。
しかしながら、同協定は1937年にイタリアが加盟して日独伊防共協定と呼ばれる三国協定となり、1939(昭和14)年にはハンガリー・満州国・スペインが参加して6カ国協定に、以後、ブルガリア、ルーマニア、デンマーク、スロバキア、クロアチア、フィンランド、中華民国(汪兆銘の南京政府)が参加しているものの、米英の取り込みには失敗し、最終的には日独伊三国同盟という当初の政治目的とは異なる軍事同盟に変貌してしまったものと考える。
その後、国内的には1938(昭和13)年に国家総動員法、1940(昭和15)年には既存政党の枠を超えた大政翼賛会が結成される等、軍事政権・国家の趣を加速させていくこととなった。
一方、言論界では「夷狄撃つべし」の活字で政府の弱腰を糾弾するとともに、国民の戦意を煽り続けたことは良く知られている。
統帥権と云う概念や陸海軍大臣の人事を悪用した軍部に罪なしとはしないが、日独防共協定にみられる政治判断の失敗と民意を開戦に煽った言論界も責任の一端を問われるべきであるように思う。更には、政府を支持し軍部の戦功を狂喜(狂気ではない)した国民の動向は果たしてどうであったのだろうか。
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