漸くに、展示会に義務付けられた3点の出品ノルマに間に合った。
作品は、歌謡シリーズ第4弾の「長崎は今日も雨だった」ですが、雨の情景など自分の画力を超えた無謀な挑戦に過ぎないことを痛感しました。
私設の自分美術館を眺めても、雨の情景を描いた作品は浮世絵の数点の他は見当たらないために、油彩対象としては不適当なものかも知れないと、今更に悔やんでおります。
また、画中の女性も8頭身に近いために、展示会出品者からの辛口批評は覚悟しております。
「長崎は今日も雨だった」(F10号)
漸くに、展示会に義務付けられた3点の出品ノルマに間に合った。
作品は、歌謡シリーズ第4弾の「長崎は今日も雨だった」ですが、雨の情景など自分の画力を超えた無謀な挑戦に過ぎないことを痛感しました。
私設の自分美術館を眺めても、雨の情景を描いた作品は浮世絵の数点の他は見当たらないために、油彩対象としては不適当なものかも知れないと、今更に悔やんでおります。
また、画中の女性も8頭身に近いために、展示会出品者からの辛口批評は覚悟しております。
「長崎は今日も雨だった」(F10号)
G7広島サミットが閉幕した。
広島サミットの成果は、「核なき世界の認識再確認」と「対中露姿勢の維持強化」であると考えている。
「核なき世界の認識再確認」は、被爆地ヒロシマを開催地とし、さらに各首脳に原爆(被爆)資料館を観覧させることで「NO」と言い出し難い雰囲気を醸成した結果であり、「対中露姿勢の維持強化」には、隠密裏にゼレンスキー大統領を参加させてグローバルサウスの旗頭インドのモディ首相と握手させた演出が大きく影響したものと考えている。
報道によれば、ゼレンスキー大統領の訪日・G7出席について日本政府は、4月中には既に打診されてG7出席に同意していたとされているが、もし事前にこのことが明らかとなっていたならば、インド・ブラジル等は参加を取りやめたことだろうし、搭乗機が中国と比較的良好な関係にあるフランスの政府専用機であったために中国上空の航空路を利用できたことなどの諸々を取り上げれば、将に「謀は密なるを以て」の好例であるように思える。情報ダダ漏れが常態とされる日本にあって、よくぞ成功したものと思う。
情報の秘匿に関する報道では、ゼ大統領の訪日が岸田総理の他は限られた閣僚にしか知らされていなかったことが秘匿成功の鍵であったとされているが、通信・警備・接遇などの官僚や空港職員・ホテル従業員などの民間人を含めると、ゼレンスキー大統領訪日計画の末期には数百人近い人々が情報の一端は知っていたものと思うので、秘匿成功は多くの名もなき市民の思想・倫理の賜物に他ならないと思う。
情報漏洩は、全貌を知っている高位の者から流出することもあるが、高位の周辺や通信を担当する末端人物からの方が圧倒的に多いと思う。情報を窃取する側にとっても、志操も高い高位者を篭絡するためには多くの経費と長い時間が必要となるが、末端の人物から断片的な情報を得て繋ぎ合わせる方が容易であるために彼らを篭絡の標的にすることが多いのではないだろうか。
高市早苗議員は、情報アクセスの資格を付与する「セキリュティ・クリアランス制度」の創設を提唱されておられる。
アフガニスタン救出作戦の失敗、スーダン撤退作戦の成功、岸田総理のウクライナ電撃訪問、そしてゼレンスキー大統領の訪日。一連の事象を鳥瞰すると、国民も漸くに情報の何たるかを考え始めて、それらに従事する人々の情報資格の必要性を考え始めたように思える。
国民が知ることは悪意を持つ敵にも知らせることと同義であることが理解されるならば、自衛隊の行動に国会の事前承認が必要などと云う主張も影を潜めるようになるに違いない。
G7広島サミットが始まった。
サミットは19日、岸田総理が広島市の平和記念公園に現地集合する各国首脳を出迎えるという演出で始まった。
その後、首脳は原爆資料館を見学の後、原爆慰霊碑の前に一列に並んで献花し・黙祷を奉げたが、各国首脳は何を考えたのだろうか。参列者はバイデン大統領(米)、スーナク首相(英)、マクロン大統領(仏)、トルドー首相(加)、ショルツ首相(独)、メローニ首相(伊)にライエン欧州委員会委員長(独)、ミシェル欧州理事会議長(白:ベルギー)であるが、大東亜戦争/第二次世界大戦の勝者と敗者、中でもヒロシマの下手人アメリカと同盟参戦した英仏加日に対して広島に匹敵する被害を受けた独、大戦末期に対独参戦することで勝者の一端に名を連ねたイタリアにあっては、おのずから違った感慨を持ったのではと推測している。更には、核保有国の米英仏・米との核共有によって実質的に核武装している伊独白に対して、核の傘にのみ依存している日加という図式も考える必要があるのではと思っている。
セレモニーの報道ではお決まりである慰霊碑の大写しがあって、そこには「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」が刻まれている。聞くところによると、碑文の主語は「日本人」ではなく「全世界の人々」とされているが些かに牽強付会の感がある。碑の建立地が国連等の国際機関であるならばそのように読めるであろうが、日本の主権下の土地であれば誰もそうは思わないだろう。何より、今もって原爆投下の正当性を公式見解としているアメリカとアメリカ国民は主語に含まれるとされることや原爆使用を過ちとすることに難色を示すであろうし、韓国が世界各地に立てた慰安婦像に対して多くの日本人が、韓国の「性奴隷解放のシンボル」という主張に忌避感ないしは違和感を以て拒否することと同根であると頷かざるを得ないように思う。
岸田総理は今回のサミットで「核なき世界への連帯」を共同宣言に盛り込みたいとされているようであるが、力の均衡こそが紛争局減・低減の原理と認識している首脳には届かぬ思いであると思うととみ、もし議長国と平和公園に対する忖度から文言が載ったとしても、実質的な効果は期待できないとも思っている。
平和公園の慰霊碑文と趣旨に対して、「言い続けることが大事」という意見が多いが、1952(昭和27)年の慰霊碑建立時には米ソ2か国であった核保有国も現在では9カ国になっており、核開発疑惑国や核共有国を含めれば優に20カ国以上にもなるだろうし、近年でも韓国が核共有をアメリカに懇請するとともに核開発さえ辞さない世論とも報じられている。
核兵器は終末兵器としていた指導者が共有していた人知・理性も、プーチン氏や金正恩氏によって危うく成りつある。
碑文に忠実なあまり核に対する国会論議まで封じる日本、中華知識人は「百年河清を俟つ」と黄河流域住民を皮肉ったが、今では「百年核清を俟つ」と対日本嘲笑に変化するかもしれない。
台湾総統選の主要候補が出揃ったことが報じられた。
祭総統路線を継承する与党「民主進歩党」の頼清徳氏、中道野党「民衆党」の柯文哲氏は既に出馬が報じられていたが、焦点の最大野党「国民党」は侯友宜(現、新北市長)氏を指名した。
台湾総統選の最大の争点は対中・対米政策であり、頼清徳氏は「現状維持(台湾は既に実質的な独立国)」、柯文哲氏は「親中・親米でない第3極」、侯友宜氏は「?(沈黙)」とされている。
これまで国民党の候補者は、鴻海精密工業の創業者である郭台銘氏が大本命と報じられていたが、祖先の墓参のために訪問した中国でのあからさまな「一つの中国容認行動」が党大会で指名を得られなかった大きな要因であるように思える。従来から国民党は蒋介石・馬英九前総統に代表されるように「中国との統一」を党是としているが、蒋一族の標榜していた台湾(中華民国)による大陸征服が非現実化した今では「一国二制度」による中国同化に変化している。しかしながら、郭台銘氏が指名獲得競争で敗北した背景には、里帰りの地で見せた「中国本土こそが父祖の地」とする望郷情念も本省人の高齢化や台湾2世・3世世代の台頭から次第に・急速に希薄となりつつある現状からではないだろうかと推測している。
現在の支持率世論調査では、頼清徳氏35.8%、侯友宜氏27.6%、柯文哲氏25.1%とされているが、近年の民主進歩党と国民党による2択対立に嫌気の差した無党派層の動向が鍵になるとされている。
政治家としての経験豊富な頼清徳氏、警察官僚出身で外交未経験のみならず対中姿勢も明確に述べ得ない侯友宜氏、医師で既成制勢力とのしがらみがないとされる柯文哲氏、来年1月の総統選で台湾国民はどのような選択をするのだろうか。
先日、駅前でビラ配りをしている老人集団があった。ビラは日本の右傾化を阻止する市民団体の名を借りた共産党の主張であったが、おそらく配っている人達は若年時からの思想を固持し続ける老闘士であろうと思った。そのような人とは別に、共産党には党首公選制を広言して除名された老闘士もいる。
変わることが良いのか?、変わらないのが良いのか?
高齢者と雖も、現状維持を言い立てる頑迷固陋な小言幸兵衛でい続けるのか?、時代の変革に応じて豹変すべきか?考えさせられる総統選とビラ配りの一幕。
故ジャニー喜多川氏による男色被害が注目されているが、以下は古生代生き残りの戯言である。
喜多川氏の存命中には報じられることも無かったが、喜多川氏の死去やジャニーズ事務所の影響力減少もあってであろうか被害を訴える人が#Me-Too的に続々と現れているようである。
自分にとって芸能界とは虚構・虚業の世界で、そこに棲む人々の倫理観は自分の住む世界とは懸け離れた別世界と思って冷ややかに眺めているが、LGBT法案審議中という世情もあってテレビ・新聞でも大きく取り上げられている。
歌舞音曲を生業とする人々を別世界の住人と考えるのは自分だけではなく、明治期以前にあっては「河原乞食」と総称されて商売往来や人別の枠外とされ、自分の育った戦後にあっても「銀幕のスター」と呼ばれたように、スクリーン上やレコード上のイメージが全て・常人の計り知れない世界で高倉健さんや吉永小百合さんは「ウンコもシッコもなさらない」と受け取られていた。現在ではメディアの多様化によってゴシップ記事やゴシップ映像が出回る様になり、芸能人は一気に常人のレベルに引き下ろされてしまったが、それには一般人の倫理観に支配された芸能レポータの存在が大きいと思っている。
別世界や雲上人を格差の代表と眺めるのは世界的な現象で、イギリス国王の戴冠式にも古式を廃止・簡略化した市民目線が随所に取り込まれていたとされている。日本でも、不敬罪・爵位・位階勲等・貴族院の廃止はもとより、一般社会でも修験の場として一般人の立ち入りが禁止されていた霊場・霊山の解放、男性限定の私的クラブ廃止、大相撲土俵の女人禁制見直し、・・・など枚挙にいとまがない。
しかしながら、それらによって格差が亡くなったかと云えば、経済格差は拡大し、経済格差は学歴格差まで生み出しているし、欧米では非公式の特権サロンが復活して表社会とは隔絶した場所・一団が政治を壟断していると「Qアノン」は喧伝している。そんな裏事情は置いても、世の中の全てを市民感覚に置き換えることで、別世界住人や雲上人が守り通してきた先人の遺産や有職故実までも失われてしまうのではないだろうか。
浅田美代子さんのキャッチフレーズは「隣のミヨちゃん」であったと記憶している。最後の別世界である芸能界でも「一般人と区別が無いこと」、「一般人のアナタも芸能界に進める」が主流となったが、昭和期に生きたジャニー氏にあってはそんな変化は認識されていなかった、或いは考えたくも無かったのではないだろうかと密かに・ささやかな同情を禁じ得ない。