glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

ヨーロッパの城塞都市

2006-09-20 10:42:09 | エスペラント
 アレッツォはローマ時代にすでに存在していた古い町で、フィレンツェから急行で40分ぐらいです。急行と言っても特別料金がいるわけではありません。
 ヨーロッパの城とはどんなものか知るにはこのような小さな町のほうが理解しやすいと思います。例えば、ローマなど7つの山に囲まれていたと言っても周りに山など見えません。あの巨大な建築物を作るために石を切り出しているうちに山は小さな丘になったのだそうです。

午後はアレッツォの町へ。町には駐車場がないというのでバスで出かけました。

なんと丘登ってゆくと辺鄙な場所でバスを降りることとなりました。バスの通らない坂を少し登ると空き地に出ました。その向こうに城壁が見えます。石の門の前に立つと下に今来た街並みと平野が広がっています。門から伸びる石の道がまっすぐにローマ方向に伸びています。

 全ての道はローマに通じるというのが分るでしょうとレカントがいいました。

 町へは10人乗りくらいの小型のバスで入る事もで来ます。石畳を歩いて坂を上って行きます。当然建物も石造りです。厚さは50センチぐらいでしょうか。商店が有ります。商店の入り口には石が切り取られた跡があります。昔出入口は裏だけだったのです。現在の正面の入り口は出窓のようになっていて、それがショーウインドウであり、お金や品物を受け渡す盤台でもあったのです。近世になり石を切り取り出入り出来るようにしたのです。
ですから、切り取られた石の跡と以前からの石の面とでは空気に触れていた時間に数百年の違いがあるのです。

トスカーナ地方の石は砂岩が主で大理石は産出しません。ですから色もとても地味です。

丘の上には教会があり、沢山の宗教画が飾ってあります。レカントは画家の説明も丁寧にしてくれるました。確かに彼らイタリア人には貴重な財産であるけれど、クリスチャンではない私にとっては受胎告知とか同じ様な画題が多いのでどれがだれの作品か認知できなく、混乱し、知識としては覚えられないでした。

教会を出て、少し下るとこの城塞都市の広場にでます。もしかしたら貴族たちはここで政治論争などしたのかも知れません。その丘の北には石の建物があり柱廊があります。

 エスペラントではKolonaro ― kolono(柱)+aro(群)

つまり石の柱が並んでたちその上に石の屋根、或は建物があるアーケードのような通路です。これは中世の初期にはまだなかったそうです。

そしてこの建物には貴族達が住んでいました。建物にはトイレも浴室もありませんでした。彼らは汚物を窓から広場に向って捨てました。広場に届くはずもなく道路に落ちます。運悪く通りかかると汚物のシャワーを浴びる事になります。女性たちはもっと大変でした。乾燥の早い土地とは言っても、濡れている時もあるわけですから、スカートの裾が汚れます。そこで考え出されたのがこの柱廊だったのです。

 ですが、外に捨てられた汚物は乾燥すると宙に舞ます。ですから、空気が汚染されました。その結果中世のヨーロッパではコレラとかペストとか疫病の流行が後を絶ちませんでした。その後正面ではなく横の道の上に建物を付けたしてトイレつき洗面所を作ったのだそうです。

 ということですので、柱廊のある建物で、横にも出っ張っている建物を見たらそこは後から洗面所を付け足したのだと考えてください。そんな見方をすると街歩きも結構楽しくなります。

こうしてみると日本の城とヨーロッパの城との違いが良くわかります。日本の城は支配者のみが住んでいました。ヨーロッパの城は商人とか当時は市民権があったかどうかわかりませんが、一般人も一緒に住む都市そのものだったのです。

 こう言う知識は(?)海外文学を読む時に役に立つなどと悦に入っております。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする