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生きること:過去と未来とエスペラントと

ヴェネチァも暑かった!

2006-08-24 10:33:03 | エスペラント
 ヴェネチァの話の前に

 以前ゴーヤを植え、二階のベランダまで綱を張った事を書いたと思うのですが、これは伸びに伸びて、今ベランダの手摺を占領しつつあります。緑の葉は隣家との間に緑のカーテンを作りとても気持が良いです。ところがです。気付かないうちに2階からも一階からも手の届かない所に大きなゴーヤが2本なっていたのです。

さて、どうしましょう? 

針金でできたハンガーを伸ばし、1、5Mほどの棒に結び付けかぎに引っ掛けて収穫しました。
  してやったりと満足しています。でも2本のゴーヤをどう調理して食べるか。このところゴーや入りの炒め物続きなのです。

 ごま油で炒め、少々甘辛く佃煮風に調理しました。ご飯に合うと好評でした。ゴーヤの成長は本当に早いです。収穫が多くて悩んでおられる方お試しください!!  


       

7月25日(火)
 いよいよヴェネチァ遠足の日です。朝、ノルマからまた電話があり、朝8時半出発、駅へはアルホンソ氏が連れて行ってくれ、後は他のエスペランテイストが案内し、その他万端私の日程は整っているのでヴェネチァを楽しんでくるようにと言われました。

駅にはレオナルドが待っていました。
 パドパ―ヴェネチァ間 5ユーロ。時間にして30分~40分。快速、鈍行といろいろあるようです。

 交通費と昼食代位は支払うつもりでしたが、彼はそれではと私の分だけ受け取りました。ヴェネチァの駅は運河に面しており、そこからサン.マルコ寺院までぽんぽん蒸気船で移動。5ユーロ。

サン・マルコ広場は大勢の人でごった返しています。その多くが、寺院の見学者です。並ぼうかとレオナルド。陽射しをさえぎるものなどない空間に多くの人が並んでいます。2~3時間並ぶ事になるでしょう。私は内覧をやめ、ヴェチァの雰囲気を楽しむことにしました。サン・マルコ寺院近くの寺院の入り口を入りました。 (名前を忘れました) この寺院に祭られている聖者は病人の為に尽くした人なので、今は病院として使用されているそうです。礼拝場所は人の出入りが禁じられており、黒い猫が1匹、冷たい石の床に心地良さそうに寝そべっていました。ここで、出入りを認められているのはこの猫だけで監視員が厳重に見張っていました。患者たちも決められた狭い通路を通っていました。かれは正面に飾られた絵を私に見せようとつれては行ったのですが、ラファエロとか、ダ・ビンチとかの絵があちこちに散らばっているイタリアの製作者の名前は、芸術的センスの無い・・・と言うより知識の無い私には記憶しておくことは難しいことでした。

彼は大運河が海に流れる方まで歩き、それから町を散歩しようといいましたので、それに従うことに.その前によりたい所があると言うので、人の波をかき分けかき分け港の方歩きました。なぜこんなに人がいるのかと思えるほど炎天下の中を、多くの人々が黙々と歩いているのです。小さな運河がある度に階段状の橋を渡って流れを越える。ただ、段差が低いので階段を越えるのは楽ですが・・・。地元の人は何百年もこの環境が1番暮らしやすい環境であると考えて生きてきたにちがいありませんがかなり厳しかったです。

レオナルドが寄った建物は入り口は小さく看板には Marina Militareと書いてありました。彼は私は年金暮らしだけれど元船員でここは船員達の立ち寄る場所だといいましたが、海軍関係のクラブようでした。

 その近くにある船博物館に入った時は本当にホッとしました。でも入り口には3メートルぐらいの大きな魚雷がありました。人が座るところがあったので人間魚雷かと思いました。後でロナルドが説明してくれたのですが、座席は二つあり前者が戦艦に向って突っ込んだ時、後者がボタンを押して二人とも魚雷から離れる仕組みになっているのです。人間と共に突っ込んでゆく日本の特攻は本当に異常で人命軽視も甚だしいものだと感じました。

3階で日本から贈られた半被と帆船の模型を見ました。半被には
『東神倉庫株式会社神戸支店』
とありました。イタリアとどんな関係があったのでしょうね。

 船の博物館で丁度一時、彼は先ほどのクラブに引き返しました。ここで昼食の予約をしておいたのでした。

建物の奥にはどっしりとした木作りの食堂があり、食堂の天井は板張りというより、昔の日本家屋の梁のような太い柱を並べた重厚なものでした。広い中庭がありその奥は宿泊施設で関係者とその関係者は安く泊まれるけれど予約は結構大変だと話していました。 

 食前にaperitivoをバ―でのみました。辞書にはアペリチフとあり、これは KIEL LA AKVO DE LA RIVERO と言う小説にでてきていたので、どんな食前酒かと興味を持ったものでしたが、実はアルコールは含んでおらず、とても甘くちょっと樹脂のような香りがしました。もちろん味も複雑です。
 『また、雑学が一つ増えた。しめしめ』と思った私でした。 

 食事はペンネ(?)魚料理、サラダ、果物でした。
食事が来る前に、ウエーターが現われて私に頼みがあると言うのです。自分の名前を日本の文字で書いて欲しいと言うのです。彼の名はジュリアでした。女性の名かと思いましたが、本人の名前でした。食事はとても美味しかったです。
 食後に彼がまた現われて今度は6人分お名前を書いて欲しいと・・・。

食後のコーヒーは玄関近くのバーで注文。レオナルドが言うことにはこのコーヒーはジュリアのおごりになっていたということでした。

 午後は狭い路地を歩き、裁判所とか有名な建物を見て歩きました。日の射さない路地は涼しかったです。午後になるとレオナルドのエスペラントが怪しくなりました。彼はエスペラントを話しているつもりでイタリア語を喋っているのです。それでも何とか分るのですが、想像できない単語を聞き返すとえっと驚いていました。途中、彼の奥さんから電話が入りました。挨拶すると私はエスペラントは喋れないの、楽しんでくださいと言っていました。


 私もイタリア語は喋れないのにどうして分ったのでしょうね。
 彼女は歯医者さんで、世界大会が終った後に休暇を取り二人でポルトガルに2週間旅行するのだそうです。
 ここだって充分に暑いのになぜとポルトガルなんだとかれは苦笑していました。

 途中でアルホンソ氏から電話が入り旅行カバンがついたと言うことでした。これでひと安心です。

ヴェネチア、7時間の散歩。あまりの暑さに日は高いけれど帰ることにしました。

帰りはパドパの一つ手前の駅で下ろされましたが、アルホンソ氏がホームで待っていてくれました。彼らの連携の良さには脱帽です。


コメント (8)
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