生まれつき体が不自由で、知的障害があった24歳の長男をみとった母親が、お世話になった特別支援学校でスクールバスの添乗員として働いている。在りし日の長男の姿を感じながら、笑顔で子どもたちと接する日々は4年目を迎えた。
三重県四日市市の県立特別支援学校「北勢きらら学園」。小中高の児童生徒約130人が通う。同県いなべ市の広谷さつきさん(54)は平日の週5日、送迎バスの添乗員として登下校に付き添い、給食や着替えの手助けもする。
長男の直大(なおひろ)さんは小学5年生から8年間、車いすに乗って通った。「でんしゃ」「ぎゅうにゅう」など好きな単語は話せ、相手の言葉は理解できたが、思いを伝えることは難しかった。食事や入浴には介助が必要で、1日に2、3回の発作が襲う日もあった。さつきさんは夫(57)と世話にかかりきりだった。
「長女(29)と次男(24)に十分に目をかけることができたか、自信がない」。さつきさんは子どもたちが、ほかの家庭のようにきょうだいで一緒に遊べない悲しさがあるのではないかと不安を抱いていた。
1998年3月。長女は小学校の卒業式で、壇上に立ち、しっかりした口調で思い出を発表した。
「私の弟は障害者で、私には弟が差別されているように感じます。みんな人間なのだから、障害者だけでなく友達にも差別をしてはいけないと思います」
成長を感じた瞬間。何より直大さんのことを理解してくれていたのがうれしかった。うるんだ目に、長女がぼんやりと映った。
2008年9月、一家に危機が襲った。学園を卒業し、地元の社会福祉協議会の作業所に通っていた直大さんが、作業所の慰安旅行で発作と肺炎を併発し、ほぼ寝たきりの状態になった。「意思表示ができなくなり、別人のようになってしまった。見ていてつらかった」。その後は入退院を繰り返し、11年夏に容体が急変。息を引き取った。
「沈んだ気持ちから抜け出せなかった」。さつきさんは直大さんを思い出して涙を流し、気持ちを抑えるため毎晩お経を唱えた。
死去から半年以上たった12年2月。友人から「スクールバスの添乗員さんが定年退職で辞めるけど、後釜にどう?」と誘われた。「私に出来るかな。思い出して落ち込むかも」。直大さんの担任だった前山祥子(さちこ)さん(49)に相談すると、「障害がある子どもたちの立場を考えられる広谷さんになら安心して任せられる。前に進みませんか」と、背中を押してくれた。
12年4月から出勤したが、最初の数カ月は直大さんが通っていたころを思い出してつらかった。
しかし、子どもたちと接するうちに変化が現れ始めた。スプーンを持って食べさせていたのに、1年後には自分でスプーンを持って食べている。あまり話せない子が、接しているうちに名前を覚えて「ひろたにさん」と呼んでくれた……。成長を目の当たりにし、「なおと一緒にいるようで楽しい。できることが増えるのを見るとうれしい」と思えるようになった。今では毎日の仕事にやりがいを感じる。
さつきさんは時間があれば、直大さんのお墓参りをしている。畑で夫が育てた菊や金魚草などの花々を手向け、そっと語りかける。「みんな元気にやってます。なおも見守ってね」

広谷直大さん(手前)と家族=広谷さつきさん提供
朝日新聞 2015年5月1日掲載