JR日豊線・亀川駅西口を出て5分、住宅地の先に「太陽の家」はあった。
事務局や在籍者住居のある本館、共同出資会社や協力企業の工場・事務所、職能訓練も兼ねた作業所やカフェ、体育館やプールなどのスポーツ施設にスーパーマーケットや銀行まで、約2万6千平方メートルの敷地はひとつの町だ。案内する人事・広報課長の四ツ谷奈津子でさえ「全部を見て歩くのは大変」と話す。
1965年10月、別府市大字内竈の地に障害をもつ15人が働く「家」は生まれた。木工、義肢装具、洋裁に車椅子、竹工。地元企業からの仕事を請け負った。
創設者の医師、中村裕は「障害者には保護より機会を」と断じ、障害者が「有給就職し納税者となる」社会を夢見た。いや、夢の実現に私財をなげうち、関係各所に熱く働きかけた。
「太陽の家」と命名した作家の水上勉は、脊椎に障害をもって生まれた次女の治療を受けた縁で生涯、中村を支援し続けた。評論家の秋山ちえ子は「応援団」を自任、井深大や本田宗一郎、立石一真ら大物経営者を中村に紹介している。
彼らの存在が後の共同出資企業に結実するのだが、その話は別に書く。井深ら企業創業者を動かした中村の先見性と情熱を思う。
「施設の近くに自宅があり、夜中でも指示が飛びました」。四ツ谷は中村の最晩年に秘書を務めた。「厳しさのなかの優しさが人を引きつけたと思います」
いまやコンピューターソフト開発やデータ処理など時代とともに成長、別府だけで障害者498人、計792人が働く。県内の大分や日出、杵築に加え、京都と愛知にも事業本部を設けた。障害者1075人、合わせて1877人規模だ。
別府は地域と施設が深く結びつく。プールは地元の小学生でにぎわい、カフェは憩いの場だ。公衆浴場「太陽の湯」でも交流が見られ、納涼大会には地域がこぞって参加、在宅介護の相談なども受ける。
直営スーパー・サンストアや大分銀行太陽の家支店は通路を広く、カウンターを低くした。段差もない。車椅子への配慮だが、地元の高齢者にも評判がいい。
ここは共生社会のショールーム。2020年レガシーを考える人にこそ見てもらいたい。ただ、中村は生前、こう話したという。
「最後には太陽の家なんかなくなってしまえということを目標にしている」。共生社会を考えるうえで、重い言葉だ。=敬称略
1964年パラリンピック東京大会で選手宣誓する青野繁夫氏と、後方で付き添う中村裕医師(「太陽の家」提供)
(特別記者 佐野慎輔) 産経ニュース