ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

入所児童、生徒が作陶…一心焼復活 地域に力を

2016年02月15日 02時30分52秒 | 障害者の自立

 終戦直後、倉吉市の知的障害児施設で始まり、入所者と地元住民との交流で作り上げられた焼き物「一心焼」。施設職員の異動などで約15年前に制作が途絶えたが、住民有志たちが団体を設立し、復活に乗り出した。まずはワークショップで交流を深め、将来的には、市内の飲食店で使う陶器を共同で作る計画。関係者は「もう一度絆を深め、地域の活力を取り戻したい」と意気込んでいる。(浜畑知之)

 ◇倉吉・住民ら団体設立 飲食店提供や展示会検討

 一心焼は1950年頃、障害児入所施設「県立皆成学園」(倉吉市みどり町)で、一度に約700もの作品を焼ける登り窯が造られたことで始まった。

 入所する児童・生徒たちが地元で取れた土をこねる一方で、近くの住民たちが窯に使うまきの提供や、窯の火入れや火力の管理などの重労働を手伝うようになり、交流が生まれた。しかし、2000年に指導していた職員が異動したのを境に、窯は使われなくなり、途絶えた。

  • 約50年前の作業の様子=県立皆成学園提供
    約50年前の作業の様子=県立皆成学園提供

 倉吉市魚町で山陰の民工芸品を扱う雑貨店を営む田中信宏さん(32)が昨秋、そんな一心焼の話を聞きつけた。「子どもたちに再び作陶をしてもらえれば、地域交流にもつながる」と、田中さんは住民や障害者を支援するNPO法人、学園の元職員らに呼びかけて、有志の団体「一心焼 再窯さいようプロジェクト」を設立。学園も「施設内ばかりで過ごすと、子供らの経験が狭まる。様々な刺激を与えてもらえるのは、うれしい」と快諾した。

 かつて使っていた登り窯は老朽化が激しいため、市内の窯元に窯の使用などの協力を依頼。16日には、同市不入岡にある「国造焼」の窯元でワークショップを開催し、参加を希望した入所児童・生徒11人が陶器の作り方を教わる。

  • 15年ほど前まで使われていた登り窯(倉吉市の県立皆成学園で)
    15年ほど前まで使われていた登り窯(倉吉市の県立皆成学園で)

 今後、入所者以外の地域の障害者にも作陶に参加してもらい、田中さんらはバックアップを行う。4月以降は、三朝町など市外の使われていない登り窯の使用、焼き上げた陶器を同市内の飲食店で活用してもらうことを計画。大型商業施設での販売や、学園に残る昔の作品と新作を並べる展示会などの開催も検討している。

 田中さんは「作り上げた作品を地域で活用することで、色んな好循環が生まれる。焼き物を通じて、地域の一体感を高めたい」と話している。

2016年02月14日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

パラリンピック 車いすに革命 日本メーカー進化の半世紀

2016年02月15日 02時21分12秒 | 障害者の自立

 障害者スポーツで使われる競技用車いすのトップメーカーが千葉市にある。極意は、利用者の体や機能にぴったり合わせた「オーダーメード」。日本の車いす作りは、半世紀前の東京パラリンピックを機に発展してきたが、細やかな伝統が脈々と息づいている。 

 「自分の手足のように動くんです」。車いす製造「オーエックスエンジニアリング」(千葉市若葉区)の工場で、鈴木朋樹さん(21)=同市中央区=が語る。幼いころの事故で立てなくなり、同社の車いすを長年使ってきた。今は陸上競技の中長距離の選手として競技用車いすも操る。

 オーエックス社はグループ三社で社員計約八十人。年間生産は約二千七百台、うち競技用は約二百台と小規模だが、同社製品を使った選手がパラリンピックで活躍し、一九九六年のアトランタ大会以降、冬季大会も合わせメダルを計百六個も獲得している。

 軽さと強度のバランスが要求される車いす作りで、最大の特徴は選手との対話から始まるオーダーメード。「服が変わると乗れないくらいぴったり作る。乗り心地を追求するには、選手とのコミュニケーションが何よりも大事」。陸上競技用を担当する小沢徹さん(46)が明かす。

 競技用の服で採寸し、座面やベルトの位置などを合わせる。まひの度合いに応じて作りは変わり、上半身を大きく動かせる場合は座面を浅く座る角度に、反対の場合は深めに…。

 注文はフランスやオーストラリアからも舞い込み、海外勢のメダルにも貢献。同社のシェアは、パラリンピックに出場した日本人選手でみた場合、陸上競技で最大約七割、テニスで約六割を占めるという。

 世界の最先端を行く日本の車いすだが、六四年の東京パラリンピック当時、外国選手の車いすとは比べものにならなかった。車いす販売会社「大分タキ」の上野茂会長(83)=大分県別府市=は、観戦した車いすバスケットボールの試合で、日本選手が扱いにくい病院用の重い車いすにクッションを敷いていたのを覚えている。下半身が不自由な上野さんが使っていたのも、木製だった。

 この東京大会が車いすの規格導入や軽量化などにつながった。上野さん自身、六五年に米国企業が東京で設立した車いすバスケチームでの活躍を経て、車いすメーカーに入社。その後に興した大分タキも含め、体の寸法や動かせる機能を測る手法を続けてきた。「五ミリ以上違ったらやり直し。お客さんが使いやすいことが大切だから」

 タイやラオスでも技術指導し、オーダーメードの伝統を伝えている。「二〇年東京大会を機に、車いすの性能向上だけでなく、障害者に対する日本社会の理解がさらに進んでほしい」

車いす陸上の鈴木選手(右)と、車いすの動きを確認する小沢さん=千葉市若葉区のオーエックスエンジニアリングで
 
2016年2月14日     東京新聞

【パラアスリート】氷上に吹く風になる アイススレッジホッケー・岡田樹君

2016年02月15日 02時10分45秒 | 障害者の自立
長野のクラブチームの選手らと練習し、両手に持ったスティックでパックを狙う樹君。競技用のソリ「スレッジ」に乗って、自由に氷の上を滑り回る=昨年12月、長野県岡谷市(安元雄太撮影)
長野のクラブチームの選手らと練習し、両手に持ったスティックでパックを狙う樹君。競技用のソリ「スレッジ」に乗って、
自由に氷の上を滑り回る=昨年12月、長野県岡谷市
臨海ジュニアアイスホッケークラブの練習中に笑顔を見せる樹君 =昨年12月、大阪府高石市(安元雄太撮影)
 

 「脚の魂がなくなった」。そう話す少年が失ったのは、歩き、走り、滑るという自由。いまは、逆境に立ち向かい、再び氷上を縦横無尽に駆ける。

 大阪府東大阪市の小学4年生、岡田樹(いつき)君(10)が熱中するのは「アイススレッジホッケー」。両手のスティックでソリをこいでパックを打つ障害者スポーツだ。猛スピードで飛ぶパックをめがけ選手がぶつかり合う。

 臨海ジュニアアイスホッケークラブ(大阪府高石市)で、練習する樹君は「ビューって滑って涼しい風を感じるのが楽しい」と瞳を輝かせる。

 幼稚園からアイスホッケーを始めた樹君が事故にあったのは一昨年9月。母親の紅子(べにこ)さん(38)の車で練習へ向かう途中、対向車がセンターラインを越え、正面衝突した。

自宅で理学療法士の補助を受けてリハビリに励む。笑顔が多いが、時折つらそうな表情も見せる =昨年12月、東大阪市(安元雄太撮影)
 
 下半身が動かなくなったが、「まあ、誰かが研究して治してくれるでしょ」と、周囲にショックを感じさせることはなかった。紅子さんは、「歩けないことを告げたとき、どれだけ落ち込むか不安でしたけど、明るくて本当に助けられました」と振り返る。


 「ホッケーができなくなった」と感じていた樹君が、退院後、クラブの紹介で出会ったのが、アイススレッジホッケーの日本代表チームコーチだった青木栄広(よしひろ)さん(40)。青木さんは「障害を持っていることを全然見せない。あの年齢で受け止めてるあいつに惹(ひ)かれちゃったんです」と、指導を決めた理由を語る。

 撮影していて感じたのは、ハンディを負っても変わらない、持ち前の朗らかさ。自宅でも学校でも、にぎやかな輪の中心にいる。車いすバスケットにも夢中で、将来の夢は、2種目でパラリンピック金メダルを獲得すること。

北海道の小6、繁泉鯉句君(奥)と競り合う。2人は将来の日本代表を目指している =昨年12月、長野県岡谷市(安元雄太撮影)
  夢はさらに羽ばたく。


 「iPS細胞を使って、立ちたいときに立って、オリンピックのアイスホッケーとバスケで金メダル!」

 4種目の頂点に立っても、まだゴールではない。

 「偉人になりたい。お札の肖像になる!!」

チームメートの力を借りて階段を下りる。クラブが樹君の復帰を受け入れてくれ、紅子さんは涙を流すほどに喜んだという =1月9日、大阪府高石市(安元雄太撮影)
 
 ファインダーに映る、明るい笑顔を見ていると、つい期待してしまう。ひょっとしたら…と。

 【岡田樹(おかだ いつき)】2005(平成17)年9月、大阪市生まれ。臨海ジュニアアイスホッケークラブ所属。14年9月、大阪府八尾市での交通事故で脊椎を損傷、下半身の自由と感覚を失う。退院後、15年5月にアイススレッジホッケーを始める。趣味は将棋。

2016.2.14      産経ニュース


UDを考える 島根大教授田中さん講習会

2016年02月15日 02時03分19秒 | 障害者の自立

 建築物のユニバーサルデザイン(UD)を考える講習会(佐賀県主催)が、佐賀県庁であった。島根大学総合理工学研究科特任教授の田中直人さんが基調講演し、「UDは弱者に対し、『してあげる』デザインではない。誰もが使いたくなるものを目指すべきだ」と語り、UDのあり方や考え方を事例とともに紹介した。

 田中さんは、視覚障害者向けの点字ブロックを事例に挙げた。点字ブロックが誘導と警告の2種類があることを紹介し、「どこまで敷設するのが利用しやすいのかを考える必要がある」とした上で、「キャリーバッグを引いている人や、ベビーカーの赤ちゃんにとって、点字ブロックはどうなのか」と課題を投げ掛け、改善の余地があることを強調した。

 佐賀県発のパーキングパーミット(身障者用駐車場利用証)制度や多機能トイレの例を挙げ、「『専用』『優先』『共用』をどうとらえるべきか考えてほしい」とも問題提起した。

 UDにありがちな問題点として、デザイン自体の不格好さも指摘した。建築では、機能の外付けではなく一体化が望ましいとし、「UDは平均化してレベルを下げるものではない。誰でも、いつでも、どこでも、どのようにでも使えるもの、使いたくなるものであるべき」と語った。

 講習会は約30人が参加した。13日は佐賀市の佐賀大医学部であり、20日正午からも嬉野市内で開かれる。

内容は各回異なる。参加の問い合わせなどは県ユニバーサル社会推進グループ、電話0952(25)7058。

佐賀県発のパーキングパーミット制度にも言及してユニバーサルデザインの考え方を語った田中直人・島根大特任教授

2016年02月14日    佐賀新聞


車椅子陸上 あこがれ実現

2016年02月15日 01時57分15秒 | 障害者の自立

 ◇リオパラリンピック佐藤選手

 グロップサンセリテ(岡山市)所属の車椅子陸上の佐藤友祈ともき選手(26)が9月のリオデジャネイロ・パラリンピックの出場枠を獲得し、代表にも内定した。突然の車椅子生活で塞ぎ込んでいたとき、自分を立ち直らせてくれたのはパラリンピックで戦っていた選手たちだった。今では、その世界トップクラスの選手たちと、同じ舞台に立ち、戦える喜びをひしひしと感じている。(望月尭之)

 佐藤選手は静岡県藤枝市の出身。バスケットボールや陸上、レスリングなどをしたが、どれも長くは続かなかった。高校卒業後、地元の企業に就職したものの、半年後に退職。「夢を探しに」と上京、アルバイトを掛け持ちして生活を送った。

 20歳だった2010年春頃から足腰に力が入らなくなった。徐々に頻度は増し、同年秋頃、アルバイト先から帰宅中に路上で倒れ、意識を失った。目を覚ました時は病院のベッドの上だった。足腰の感覚はなくなり、左手にしびれが残り、握力は2キロほどになった。脊髄炎だった。約1か月間の入院生活の後、実家に戻った。しかし、健常者の生活から一転し、車椅子で過ごすという急な環境の変化で、外出する気になれず、自室に引きこもるようになった。

 そんな生活を一変させたのが、12年夏のロンドン・パラリンピックの一競技、車椅子陸上だった。テレビ画面に映し出される選手たちは、病と闘いながら、メダル獲得を目指して、しのぎを削っていた。素直に「かっこいい」と感じた。「自分もこの舞台に立ちたい」と思った。

 知人を通じて車椅子陸上の選手を紹介してもらい、練習を始めた。思いもしなかったスピードに驚きつつ、夢中になった。練習を重ね、様々な大会に出場するうち、記録はぐんぐん伸びた。「やっと熱中できるものに出会えた」。

 より練習に打ち込めるようにと、14年4月、練習環境が整っている岡山に生活拠点を移した。北京、ロンドンの両パラリンピックに出場した松永仁志選手(43)に師事し、昨年9月、同選手が所属する岡山市内の会社に就職、平日は夕方まで業務をこなしながら練習に励んでいる。

 カタールのドーハで昨年行われた障害者陸上の世界選手権。車椅子男子400メートル(T52クラス)で、2位に約3秒差をつけ、パラリンピック参加標準記録A(1分4秒00)を上回る1分0秒91の記録で優勝した。現在はパラリンピックに向け、中盤の加速とスタート時の改善に力を入れる毎日。「両親をはじめ、これまで支えてきてくれた人たちへの感謝は、ベストの走りで伝えたい」と意気込む。

リオデジャネイロ・パラリンピック出場が内定した佐藤選手(岡山市北区の県総合グラウンド補助陸上競技場で)

リオデジャネイロ・パラリンピック出場が内定した佐藤選手

2016年02月14日 Copyright © The Yomiuri Shimbun