川崎市幸区の老人ホームで2014年11~12月、入所者3人が転落死した事件。今年2月、元職員の男性(23)が少なくとも1人の入所者を殺害した容疑で逮捕され、安泰な老後を望む多くの人に衝撃を与えた。介護の現場で何が起こっていたのか。様々な職場で悩む人たちの声を長年聞いてきた労働ジャーナリストの金子雅臣さんは、「仕事上の思いやりや共感、尽くす気持ちが罵倒され、なじられることで摩滅していく“感情労働”職場」の存在を指摘、そうした職場がはらむ危険に警鐘を鳴らす。
まさに起きてはならない事件が起きてしまったというのが、川崎の有料老人ホームの殺人事件である。まだ、全容が解明されたわけではないが、これからの捜査で一体どこまで事実が明らかになるのであろうか、本当にこの事件の闇は解明されるのだろうか。多くの人たちの関心は、捜査の行方に寄せられていくであろう。
しかし、一方で、多くの人たちが、こんな事件がいつか起きるかもしれないことをどこかで、なんとなく予想していたことも事実だ。それは、こうした介護現場ではこれまでも「起きてはならない事件」が幾度か繰り返されてきたし、その都度背景となっている過酷な介護労働の現場についての指摘も何度も何度も繰り返されてきたからだ。そして、それにもかかわらず、その実態は一向に改善されていないことも知っているからである。
過去にも、老人に熱湯をかけた事件やストーブに押しつけて火傷やけどをさせた事件、階段から突き落として重傷を負わせた事件など、「ありえない事件」は数々起きており、その都度、過酷な現場でストレスを抱えた職員の発作的な犯行であったことが報告されている。決して今回の容疑者の行為を肯定するものではないが、今回も、徐々に現場の過酷な労働の実態が明らかになってきており、また彼の抱え込んでいたストレスや闇の部分もいろいろに伝わってくるだろう。
だから、現場の労働条件を改善し、働く職員のストレスの軽減が図られなければ、こうした事件が繰り返されるだろうという主張にまったく異論はない。しかし、果たして、これまでも繰り返されてきたこうした紋切り型の原因解明で済ませておいていいのだろうかというのが、私の疑問である。
私が言いたいことは、介護労働という働き方のなかに殺意が芽生える動機が潜んでおり、そうした働き方を問題にしないかぎり、こうした悲劇は繰り返されるということである。介護や医療の現場、そして障害者施設などでの患者や要介護者への思いやりを使命感として働く現場の共通した危うさを問題にしたいということである。
自分を殺して働く
過去の多くの事件でも、「あんなに親切で、思いやりがあり高い使命感をもって働いていた人がなぜ、あのような事件を起こしたのか?」という疑問が繰り返されてきた。今回の事件がどうかは別としても、「とてもそんなことをするとは考えられない」人が起こしてしまうというメカニズムこそが問題なのである。
こうした現場で働く人たちの多くは使命感に燃え、人一倍、命や人間の尊厳に敏感で、共感力も高い人たちである。そして、行為者となってしまう多くの人たちもその例外ではない。こうした使命感と起こされた事件とのギャップが解明されない限り、少なくとも、この根本的な疑問を取り上げない限り、事件の本質に迫ることはできないような気がするのである。
つまり、使命感が高い、親切で思いやりのある人ほど、悪意や殺意にからめとられてしまうシステムが働き方の中にあることを解明しないかぎり、解決や対策はありえないと思えるからである。
ケア・ハラという言葉がある。今回の事件のようにケアをする人たちが弱者である要介護者にハラスメントをすることではない。その逆で、要介護者からハラスメントを受けるようなことを言う言葉である。実際、介護などの現場では、要介護者が強者となって介護者との立場が往々にして入れ替わることが起きるという。
こうした現象は、まさに親切で思いやりがあり、使命感の高い人たちに向けられがちであるという。つまり、そうした仕打ちにも反撃することなく、何とか相手の怒りを受け止めて、使命感で耐えようとするからエスカレートするというのである。
一方の要介護者は、まさに社会的弱者としてストレスや不満、そして怒りを抱え込んだ人たちである。そして、そうした人たちであることを知っているからこそ、親切や思いやりで接することが使命と感じている職員ほど、そのハラスメントに理解を示し耐えようとする関係が生まれることになる。
そのことによって、いじめと同じ構造で、ハラスメントがエスカレートする事例も多く、こうした繰り返しの中で、職員の多くは、自らの怒りの感情を抑えて働くことになる。まさに、職員の側は、自らの暴発を防ぐために、自らを守るために感情を日々殺して働くことになり、まさに“自分殺し”をしながら働くことになる。
“感情労働”という心の闇
寝たきり患者のナースコールを引き抜いてしまい解雇になった女性看護師と面談した経験がある。その看護師は夜中に何度も何度もコールする患者に悩まされていた。そして急いで駆け付けても、「遅い」とか「何をしている」などとなじられ続けていた。
しかし、彼女はそのことに怒りを感じてはいなかったし、そのことへの報復をしたわけでもなかった。彼女は私に、淡々と「仕事ですから別に憎いとか、悪意とかではないんです。何度も何度もナースコールをされるので、ただ少し静かにしてほしかっただけなんです」と動機を語って私を驚かせた。
「毎日自分殺しを繰り返しているうちに、感性が摩滅して、自分が何を考えているのかも分からなくなっているのかもしれない」「自分を毎日殺して働いているんですから、そのうち他人も殺せるようになるかもしれません」とも彼女は言っていた。
こんな彼女の評判は、「よく気がつく優しい人」であり「有能な使命感に燃えたナース」であった。そんな彼女が「静かにしていてほしい」という単純な動機で患者からすれば生死に関わるホットラインともいえるナースコールを引き抜くという暴挙を行ってしまったことに驚かされた。
私は、こんな経験から、今回の事件も彼は「ただ、うるさい老人たちに少し静かにしてほしかっただけ」なのかもしれないなどという想像を働かせてしまった。別の言い方をすれば、彼は燃え尽きてしまって共感性を失い、何も感じられないバーンアウトしてしまっている状態なのかもしれないということである。
相手を思いやり相手に尽くし続けることは、相手からの感謝やねぎらいの言葉で癒やされてこそ帳尻合わせができる。しかし、相手が認知症だったり、怒りで充満している老人だったりすれば、そうした期待は裏切られる。それでも、彼らは自分の精神的なバランスは保ち続けなければならない。
しかし、思いやりや尽くすことが、罵倒され、なじられる日々の連続になれば、精神的なバランスを保ち続けることや、精神の統合を維持し続けるのは容易なことではない。こんな働き方を“感情労働”と呼んで警告を発した本がある。
アーリー・ホックシールドが著した「管理される心―感情が商品になるとき」(世界思想社刊)である。そこには、感情労働とは「表情と身体的表現を作るために行う感情の管理で、賃金と引き換えに売られ、したがって<交換価値>を有する」労働と表現されている。
つまり、仕事上の思いやりや共感、そして尽くす気持ちは切り売りされて摩滅して枯渇していくというのである。また、喜びや悲しみという感情は失われて感情が麻痺まひしていくという。そして、そうした危機から身を守るためには「もし、あなたが何も悪いことをしていないのに、お客様ががみがみ言うことがあったら、その人が責めているのはあなた自身ではない、と思いなさい」と、解離(自分が自分であるという感覚が失われている状態)や心理麻痺状態になって事態を避けることが推奨されている。
しかし、そうした手法が行き過ぎた場合には何が起きるのだろうか。自らに起きていることを、自らのこととして受け止めず、相手への共感性も殺す努力には、他人を殺すことをも許容してしまう感情麻痺の危険性が潜んでいるような気がするが、どうだろう。
“よいホーム選び”幻想
今回の事件についても、これから様々に行為者の抱えた特殊な事情が語られていくことになると思う。しかし、これまで述べてきたように労働条件一般や特殊個人的な問題に解消してしまえば、真の原因は見えてこない。
今回の事件は、介護にかぎらず看護職や福祉職など“感情労働”に関わる全ての人たちへの警鐘である。職場が殺意を育むシステムとならないようにするには、職員の定期的なストレスチェックや、それに基づく心のケアを用意することが不可欠である。
運転手が運転前に飲酒のチェックを受けるように、感情労働の現場にはストレスチェックを用意し、その結果については手厚いケアの体制を用意することが必要である。そのことなしに、こうした事件の再発は防ぐことはできない。
こんな事件が起きるとまたぞろ「よい老人ホームの選び方」的な解説が増えることも気になる。皮肉なことに「よい老人ホーム選び」などという言い方や視線が、そこで働く人たちの感情労働へのハードルをまた上げて、ますます追い込む要因になるからである。
2016年02月25日 読売新聞