ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

高齢・障害者の総合支援、会員制サービス 札幌・村松法律事務所

2016年02月26日 03時00分20秒 | 障害者の自立

 ゆとりろの初回の相談は無料で、その後は年間5千円(税別)を払って会員になれば、30分間の無料相談を3回受けられる。弁護士への法律相談の相場とされる1時間5千~1万円と比べれば割安だ。ただ、相談内容に応じて、財産管理に伴う書面作成や代理人委任などの法的業務が生じた時は、会員登録とは別に委任契約を結ぶ必要がある。

 今月8日には札幌市東区の会社役員の男性(70)が遺産相続について相談に訪れ、弁護士2人が対応。その場で会員登録した男性は「自分が病気や認知症で動けなくなった時、相談に乗ってもらえる弁護士がいるのは心強い」と喜ぶ。

 高齢化が進む中、判断力が低下した高齢者を狙った詐欺や、成年後見人による財産横領などの被害は後を絶たない。ゆとりろ運営の中心を担う村松法律事務所の桜井浩弁護士は「高齢者や障害者のさまざまな悩みを受け止め、法律事務所の枠を超えて総合的に支援したい」と話している。

 問い合わせは同事務所(電)011・281・0757へ。

02/24     北海道新聞


日本社会の「視覚障害者への配慮」に中国メディアは脱帽

2016年02月26日 02時49分37秒 | 障害者の自立

「日本に学ばねばならない」

2016年2月18日、中国紙・環球時報は日本社会の目の不自由な人への配慮について報じた。 


中国で目の不自由な人は1300万人いると言われている。人口を13億人とすると、100人に1人の割合だ。しかし、中国のインターネット掲示板で「100人に1人が目の不自由な人なのに、街中でこういう人たちをあまり見かけないのはなぜ?」といった疑問が提起されるほど、中国では見かけることが少ない。 

日本ではどうか。少し古いが、2008年の厚生労働省の発表では、目の不自由な人は総人口の0.27%にあたる31万人いると言われている。中国よりも割合は少ないが、街中で目の不自由な人を見かけたことがあるという人がほとんどだろう。記事はこの差について、「目の不自由な人が安心して外出できる環境があるかどうか」という点を指摘している。 

日本には目の不自由な人のための設備が至る所にある。たとえば、横断歩道には目の不自由な人のための「音響用押ボタン」があり、音楽が流れることで信号が青であることを教えてくれる。 

また、点字も広く普及している。駅では券売機やエレベーターはもちろん、電車内のドアには何号車の何番ドアであるか、階段の手すりにはそこが何番出口であるかという情報が点字で示されている。公共施設や銀行のATMでも同様だ。こうした配慮は生活の中にもある。たとえば、シャンプーの容器の側面にギザギザを付けることでリンスと間違えないようにしていたり、酒類の缶の上部に点字で「おさけ」と表示することで誤って飲まないように工夫されている。 

このほか、ほとんどの道路には点字ブロック(地面に設置された黄色いブロック)があり、盲導犬を連れて入ることができる施設や店も多い。また、子どもたちに目の不自由な人の生活を体験させる授業を取り入れている学校もある。 

中国ではこうした社会環境がまだまだ整っていないのが実情だ。中国にも点字ブロックはあるものの、点字ブロックの上に自動車を止めたり、露店を開いたり、ひどい場合には点字ブロックの途中に街路樹やマンホールが設置されている所もある。記事は「この問題においては、中国人は日本を認めざるを得ず、日本から学ばなければならない」としている。

18日、中国紙・環球時報は日本社会の目の不自由な人への配慮について報じた。写真は点字ブロック。

2016年2月25日    Record China


東京日帰り弾丸ツアー敢行‼バリアフリーって何⁉

2016年02月26日 02時45分49秒 | 障害者の自立

一昨日の月曜日、人にお会いするために東京日帰り弾丸ツアーを敢行しました。 お会いしてお話したことは、改めて書きますが、今回は道中色々思った事を書いてみようと思います。 

①新幹線 こんな身体になるまで全く知りませんでしたが、新幹線には車椅子が乗るために、三列シートの一席を取り除いたスペースがあります。また、介助者も一緒に入れる個室もあります。これらを利用するためには事前予約が必要です。いきなり行って乗ることは出来ません。 

料金については、私のような状態の場合は、本人と介助者1名まで乗車券は半額になります。介助者無しでは身動きの取れない私にとってありがたいことです。しかし、何故か特急券は半額になりません。 私の介助者は、何処に行っても四六時中私に付き添い、観光はおろか食事も車内で済ませる有様です。岐阜から名古屋には2人で1人分の料金で行けるのに、東京まで足を伸ばそうとすると、在来線で行かない限りコストアップになります。不思議です。 

②トイレ 私の現在の症状において、最大の懸念はトイレです。自宅のトイレなら、狭い空間なので介助者が壁を背にしたり、私を壁にもたれかけることで1人でも介助可能です。しかし、所謂障害者トイレは広いが故に壁を支えに使えず、安全の為には2人介助者が必要です。 

今回はトイレのためにもう1人分新幹線代を出すのがしんどかったので、東京現地で時給制でお願い出来る看護師さんを呼びました。お互い不慣れで、お互い大変でした。 

障害者用トイレという空間はかなりの場所で整備されました。しかし、私にとって介助者がいなければ用を成しません。例えば、ベビーシッターや保育士を常駐させている商業施設のように、看護師が常駐する施設があると嬉しいなと思います。 まだオムツにはなりたくありません(笑) 

③駅のホーム ホームを移動するときに、端を通りますが、どうしても車椅子の車輪が点字ブロックの上を通り、振動が結構嫌なものです。しかし、点字ブロックは視覚障害者には命綱です。 バリアフリーの設計は、様々な障害の症状に対応する「最大公約数」をとる難しい仕事だと思いました。 

バリアフリーって何でしょう?ALSになり、ありがたい医療・福祉サービスを受ける一方、経済的バリアや時間的バリアを感じることも少なくありません。不可抗力で障害を持った人にとって、まだ色々なバリアがあると思います。 

でも、私はめげずにこれからも遠出します! 

  • 2016年02月24日      BLOGOS

実際の選挙さながらに生徒会長選 都立足立特別支援学校

2016年02月26日 02時37分29秒 | 障害者の自立

 選挙権年齢の十八歳以上への引き下げを受け、知的障害のある生徒二百人余りが通う都立足立特別支援学校(足立区花畑七)は、実際の投票所さながらの手順で生徒会長選挙を行った。 

 体育館には受け付け、仕切りのある記載所、投票箱などが設置された。区選挙管理委員会から、実際に使われている道具を借りた。

 生徒会長選には三人が立候補した。「文化祭と体育祭を盛り上げます」などと候補者が演説した後、有権者となった生徒たちは、一人ずつ用紙を受け取り、候補者の名前を記入。投票箱に一票を投じるまでの一連の流れを体験した。戸惑う生徒には、教員が付き添って、やり方を教えた。

 これまでの生徒会長選は、候補者全員の名前を書いた紙を用意して選びたい人に丸印をつけていた。通常の選挙と同じ方式にしたのは「有権者としての一歩を踏み出し、投票できるようになってほしい」(高橋忠雄副校長)からだ。重い障害のために字を書くことが難しい生徒のためには、候補者の顔写真を張った箱を用意した。好きな箱に紙をいれることで投票となる。

 この日の選挙は混乱なく終わったが、高橋馨校長は「教員の指示がなくて生徒たちはどこまで動けるだろうか。実際の選挙でも写真を見て選ぶことができれば、いいかもしれない」と提案した。

 学校には、選管などから十人の区職員が「知的障害者に必要な支援や配慮のあり方を考える機会にしたい」と見学に来ていた。公職選挙法には「代理投票」の規定があって、字を書くことが難しい人は、投票所に詰めている投票従事者に用紙への記入を頼むことができる。区選管によると、記載所に張られた候補者名を指さしてもらうなどして、意思を確認しているという。

 鈴木一夫(いちお)事務局長は「(健常者に比べて)投票するのに時間がかかるかもしれないが、せかしてはいけない。いまの投票所の人員配置で対応できるか検討し、必要な工夫をしていきたい」と話した。

記載所で投票用紙に記入する生徒たち

2016年2月25日     東京新聞


川崎有料老人ホーム殺人事件~殺意の芽生える職場~

2016年02月26日 02時28分33秒 | 障害者の自立

 川崎市幸区の老人ホームで2014年11~12月、入所者3人が転落死した事件。今年2月、元職員の男性(23)が少なくとも1人の入所者を殺害した容疑で逮捕され、安泰な老後を望む多くの人に衝撃を与えた。介護の現場で何が起こっていたのか。様々な職場で悩む人たちの声を長年聞いてきた労働ジャーナリストの金子雅臣さんは、「仕事上の思いやりや共感、尽くす気持ちが罵倒され、なじられることで摩滅していく“感情労働”職場」の存在を指摘、そうした職場がはらむ危険に警鐘を鳴らす。

 まさに起きてはならない事件が起きてしまったというのが、川崎の有料老人ホームの殺人事件である。まだ、全容が解明されたわけではないが、これからの捜査で一体どこまで事実が明らかになるのであろうか、本当にこの事件の闇は解明されるのだろうか。多くの人たちの関心は、捜査の行方に寄せられていくであろう。

 しかし、一方で、多くの人たちが、こんな事件がいつか起きるかもしれないことをどこかで、なんとなく予想していたことも事実だ。それは、こうした介護現場ではこれまでも「起きてはならない事件」が幾度か繰り返されてきたし、その都度背景となっている過酷な介護労働の現場についての指摘も何度も何度も繰り返されてきたからだ。そして、それにもかかわらず、その実態は一向に改善されていないことも知っているからである。

 過去にも、老人に熱湯をかけた事件やストーブに押しつけて火傷やけどをさせた事件、階段から突き落として重傷を負わせた事件など、「ありえない事件」は数々起きており、その都度、過酷な現場でストレスを抱えた職員の発作的な犯行であったことが報告されている。決して今回の容疑者の行為を肯定するものではないが、今回も、徐々に現場の過酷な労働の実態が明らかになってきており、また彼の抱え込んでいたストレスや闇の部分もいろいろに伝わってくるだろう。

 だから、現場の労働条件を改善し、働く職員のストレスの軽減が図られなければ、こうした事件が繰り返されるだろうという主張にまったく異論はない。しかし、果たして、これまでも繰り返されてきたこうした紋切り型の原因解明で済ませておいていいのだろうかというのが、私の疑問である。

 私が言いたいことは、介護労働という働き方のなかに殺意が芽生える動機が潜んでおり、そうした働き方を問題にしないかぎり、こうした悲劇は繰り返されるということである。介護や医療の現場、そして障害者施設などでの患者や要介護者への思いやりを使命感として働く現場の共通した危うさを問題にしたいということである。

自分を殺して働く

 過去の多くの事件でも、「あんなに親切で、思いやりがあり高い使命感をもって働いていた人がなぜ、あのような事件を起こしたのか?」という疑問が繰り返されてきた。今回の事件がどうかは別としても、「とてもそんなことをするとは考えられない」人が起こしてしまうというメカニズムこそが問題なのである。

 こうした現場で働く人たちの多くは使命感に燃え、人一倍、命や人間の尊厳に敏感で、共感力も高い人たちである。そして、行為者となってしまう多くの人たちもその例外ではない。こうした使命感と起こされた事件とのギャップが解明されない限り、少なくとも、この根本的な疑問を取り上げない限り、事件の本質に迫ることはできないような気がするのである。

 つまり、使命感が高い、親切で思いやりのある人ほど、悪意や殺意にからめとられてしまうシステムが働き方の中にあることを解明しないかぎり、解決や対策はありえないと思えるからである。

 ケア・ハラという言葉がある。今回の事件のようにケアをする人たちが弱者である要介護者にハラスメントをすることではない。その逆で、要介護者からハラスメントを受けるようなことを言う言葉である。実際、介護などの現場では、要介護者が強者となって介護者との立場が往々にして入れ替わることが起きるという。

 こうした現象は、まさに親切で思いやりがあり、使命感の高い人たちに向けられがちであるという。つまり、そうした仕打ちにも反撃することなく、何とか相手の怒りを受け止めて、使命感で耐えようとするからエスカレートするというのである。

 一方の要介護者は、まさに社会的弱者としてストレスや不満、そして怒りを抱え込んだ人たちである。そして、そうした人たちであることを知っているからこそ、親切や思いやりで接することが使命と感じている職員ほど、そのハラスメントに理解を示し耐えようとする関係が生まれることになる。

 そのことによって、いじめと同じ構造で、ハラスメントがエスカレートする事例も多く、こうした繰り返しの中で、職員の多くは、自らの怒りの感情を抑えて働くことになる。まさに、職員の側は、自らの暴発を防ぐために、自らを守るために感情を日々殺して働くことになり、まさに“自分殺し”をしながら働くことになる。

“感情労働”という心の闇

 寝たきり患者のナースコールを引き抜いてしまい解雇になった女性看護師と面談した経験がある。その看護師は夜中に何度も何度もコールする患者に悩まされていた。そして急いで駆け付けても、「遅い」とか「何をしている」などとなじられ続けていた。

 しかし、彼女はそのことに怒りを感じてはいなかったし、そのことへの報復をしたわけでもなかった。彼女は私に、淡々と「仕事ですから別に憎いとか、悪意とかではないんです。何度も何度もナースコールをされるので、ただ少し静かにしてほしかっただけなんです」と動機を語って私を驚かせた。

 「毎日自分殺しを繰り返しているうちに、感性が摩滅して、自分が何を考えているのかも分からなくなっているのかもしれない」「自分を毎日殺して働いているんですから、そのうち他人も殺せるようになるかもしれません」とも彼女は言っていた。

 こんな彼女の評判は、「よく気がつく優しい人」であり「有能な使命感に燃えたナース」であった。そんな彼女が「静かにしていてほしい」という単純な動機で患者からすれば生死に関わるホットラインともいえるナースコールを引き抜くという暴挙を行ってしまったことに驚かされた。

 私は、こんな経験から、今回の事件も彼は「ただ、うるさい老人たちに少し静かにしてほしかっただけ」なのかもしれないなどという想像を働かせてしまった。別の言い方をすれば、彼は燃え尽きてしまって共感性を失い、何も感じられないバーンアウトしてしまっている状態なのかもしれないということである。

 相手を思いやり相手に尽くし続けることは、相手からの感謝やねぎらいの言葉で癒やされてこそ帳尻合わせができる。しかし、相手が認知症だったり、怒りで充満している老人だったりすれば、そうした期待は裏切られる。それでも、彼らは自分の精神的なバランスは保ち続けなければならない。

 しかし、思いやりや尽くすことが、罵倒され、なじられる日々の連続になれば、精神的なバランスを保ち続けることや、精神の統合を維持し続けるのは容易なことではない。こんな働き方を“感情労働”と呼んで警告を発した本がある。

 アーリー・ホックシールドが著した「管理される心―感情が商品になるとき」(世界思想社刊)である。そこには、感情労働とは「表情と身体的表現を作るために行う感情の管理で、賃金と引き換えに売られ、したがって<交換価値>を有する」労働と表現されている。

 つまり、仕事上の思いやりや共感、そして尽くす気持ちは切り売りされて摩滅して枯渇していくというのである。また、喜びや悲しみという感情は失われて感情が麻痺まひしていくという。そして、そうした危機から身を守るためには「もし、あなたが何も悪いことをしていないのに、お客様ががみがみ言うことがあったら、その人が責めているのはあなた自身ではない、と思いなさい」と、解離(自分が自分であるという感覚が失われている状態)や心理麻痺状態になって事態を避けることが推奨されている。

 しかし、そうした手法が行き過ぎた場合には何が起きるのだろうか。自らに起きていることを、自らのこととして受け止めず、相手への共感性も殺す努力には、他人を殺すことをも許容してしまう感情麻痺の危険性が潜んでいるような気がするが、どうだろう。

“よいホーム選び”幻想

 今回の事件についても、これから様々に行為者の抱えた特殊な事情が語られていくことになると思う。しかし、これまで述べてきたように労働条件一般や特殊個人的な問題に解消してしまえば、真の原因は見えてこない。

 今回の事件は、介護にかぎらず看護職や福祉職など“感情労働”に関わる全ての人たちへの警鐘である。職場が殺意を育むシステムとならないようにするには、職員の定期的なストレスチェックや、それに基づく心のケアを用意することが不可欠である。

 運転手が運転前に飲酒のチェックを受けるように、感情労働の現場にはストレスチェックを用意し、その結果については手厚いケアの体制を用意することが必要である。そのことなしに、こうした事件の再発は防ぐことはできない。

 こんな事件が起きるとまたぞろ「よい老人ホームの選び方」的な解説が増えることも気になる。皮肉なことに「よい老人ホーム選び」などという言い方や視線が、そこで働く人たちの感情労働へのハードルをまた上げて、ますます追い込む要因になるからである。

2016年02月25日      読売新聞