ゴエモンのつぶやき

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SO閉幕 共生社会へ大きな一歩

2016年02月23日 12時19分18秒 | 障害者の自立

交流で理解深め 練習場など、すそ野拡大に課題

 14日に閉幕した知的障害者の国内冬季競技会「スペシャルオリンピックス(SO)2016新潟」には選手、ボランティア、観客など延べ約1万5千人が参加した。3日間にわたって行われた競技やイベントを通しての交流は、障害に対する理解を深めるとともに共生社会を築く大きな一歩となった。一方、大会が残した財産を受け継ぎ、育てるための課題も浮き彫りとなった。障害者がスポーツを続けるための練習場所の確保や費用、参加数の拡大などの面で、さらなる環境整備が求められている。(報道部・五十嵐南美)

 「なんだ。僕たちと変わらないんだ」。雪上競技の会場となった南魚沼市の五日町スキー場で、選手と触れ合った小学生の言葉を聞き、同市大会実行委員会事務局長の谷口博文さん(59)は笑顔になった。「相手に障害があっても構える必要はないと、子どもたちに体感してもらえた」と地元開催の意義を語る。

 開幕直前まで広報活動に力を入れたことで、多くの子どもたちが会場に集まり、応援やボランティアに汗を流した。選手の滑りを見て息をのむ子、選手に手を振り返してもらい喜ぶ子の姿もあった。「価値観が固まる前に、こうした経験をすることが大切」と谷口さん。今後も小中学校で障害者への理解を深める出前授業などを行う予定だ。

 主役の選手たちも大きな自信を得たようだ。アルペンスキーに出場し、金メダルを獲得した県立高田特別支援学校中学部1年の伊藤愛さん(12)は「表彰台に上がったら、たくさんの人が見えた。初めての金メダルは、すごくうれしい」と顔をほころばせた。

 今大会は、選手以外の知的障害者が健常者とペアを組んでボランティアに当たる「mit(ミット)」という新方法が導入された。この方法で参加し、スケート会場でグッズ販売をした土田学さん(27)=新潟市北区=は「いつもは支援を受ける側だが、今回は自分ができる仕事があった」と喜んだ。

 参加した関係者からは練習場所の確保や、参加者数の向上など今後の課題を挙げる声が聞かれた。フィギュアスケートのヘッドコーチを務めた渡辺匡(まさし)さん(47)=柏崎市=は「練習場所を借りる際の金銭面の負担は重かった。減免措置があるとありがたい」と訴える。

 参加者のすそ野を広げる取り組みも必要だ。県障害福祉課によると、知的障害者に交付される療育手帳を持つ人は県内で約1万7500人。そのうちSOの練習会に参加しているのは約400人。大会に出場したのは約90人で、一握りでしかない。SO関係者は「この子には無理だろう」と周りが初めから諦めてしまうケースもあると指摘する。

 大会を主催したSO日本のプログラム推進チームリーダー園部さやかさん(41)は「これまでの開催地を見ると、大会後に日常の練習を手伝うボランティアは増える傾向にある。それを維持できるかが重要」と話す。

 初めての本県開催で盛り上がった人々の関心や選手のやる気を、どうやって持続させるのか-。

 大会実行委事務局長の久保田健さん(51)は「大会が打ち上げ花火で終わらないよう、盛り上がりを次につなげたい」と力強く語った。

表彰される選手を見守る家族やボランティア=14日、南魚沼市

表彰される選手を見守る家族やボランティア

2016/02/22    新潟日報
 

成年被後見人の選挙権回復に尽くした 名児耶清吉さん(84)

2016年02月23日 12時10分28秒 | 障害者の自立

 ダウン症の長女匠(たくみ)さん(53)が選挙権を取り戻した三年前の参院選以降、匠さん、妻佳(けい)子さん(83)と家族三人で必ず、投票所に足を運んでいる。「棄権する人(健常者)が多いのは、もったいない。期日前投票でも、遊びに行くついでにでも、自分の意思表示をすれば良いのに」と笑う。

 知的障害者や認知症の人などを法的に守るため、二〇〇〇年に施行された成年後見制度。当初は「誰を選ぶべきか、判断が期待できない」という理由で、被後見人が選挙権を失う規定があった。

 一一年二月、清吉さんが後見人となっている匠さんが原告となり、東京地裁に行政訴訟を起こした。一三年三月に勝訴を勝ち取り、同五月に規定を削除する改正公職選挙法が成立した。その年の七月に行われた参院選、投票する匠さんらの姿が新聞紙上を飾った。

 匠さんの後見人になったのは〇七年。被後見人が選挙権を失うことは、申請時に分かっていたという。五年が過ぎるころ、「特に気にしていないだろう」と思っていた匠さんに「成年後見なんて、なければいいんだ」と言われ、衝撃を受けた。「とんでもない人権侵害を犯してしまった」という後悔が、訴訟を起こす原動力になった。

 清吉さん夫婦は、匠さんが成人したとき、投票所に連れて行き、繰り返し、繰り返し、投票の仕方を教えてきた。今は牛久市内でパートで働く匠さんは選挙のたび、選挙公報を「穴のあくほど読んでいる」という。

 匠さんが就学年齢を迎えた昭和四十年代前半、地元の小学校には特別支援学級がなかった。特別支援学級を設置できるのは三年次から。加えて、希望者が五人以上いることが条件だった。結局、匠さんの小学校生活は三年生から、旧友部町に初めて開設された県立の養護学校で始まった。障害への理解や障害者の権利の保障も、まだ、これからの時代だった。

 昨年四月には県の障害者権利条例が施行され、今年四月からは国の障害者差別解消法も施行される。「法整備も進み、昔に比べれば、環境は良くなった」

 ただ、一般の人の理解はまだまだ得られていないと感じる。「認知症や手足が不自由になるなど、普通の人も、いつでも社会的に支障を抱えた状態になり得る。障害者という別の種類の人間は、いない」と考える。

 「障害者とは、社会的な障壁を前に、困っている状態の人のこと。社会の中にある見えない障壁を、少しでも薄く、低くしていきたい」 

 <なごや・せいきち> 1931年、東京・本所生まれ。45年の東京大空襲で焼け出され、ブラシ製造業を営む家族とともに牛久市に。2013年3月、長女の匠さんを原告に争った成年被後見人の選挙権回復訴訟で勝訴。県手をつなぐ育成会理事、知的障害者のグループホームなどを営むNPO法人おおぞら(牛久市)名誉理事長、「茨城に障害のある人の権利条例をつくる会」副代表。牛久市在住。