東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で福島県富岡町から集団避難した知的障害者の男性がこの夏、福島県に戻った。一緒に避難した仲間や支援者と離れる寂しさを感じつつ、父の住む古里で仕事をしながら生活したいと、集団避難先からの「帰還第1号」として新たな一歩を踏み出した。
男性は吉田茂士(しげじ)さん(44)。富岡町の知的障害者施設「光洋愛成園」の系列グループホームで暮らし、町内の肥料工場で働いていた。原発事故で同園と系列施設の障害者や職員ら100人余は約220キロ離れた群馬県高崎市の国立知的障害者施設「のぞみの園」に集団避難を余儀なくされた。
普通中学を卒業した吉田さんは金属部品加工などの会社に就職したが、周りのペースについていけず退職。障害者施設に一時入所した後、宮城県内の漁師宅に住み込んで約20年間、カキの水揚げをした。この間、母を亡くし、独りになった父を案じて6年前に富岡に戻り、グループホームへ。就労支援施設に通い、3年前から残飯を堆肥(たいひ)化する企業で職場実習を始めた。
朝、洗濯をすませバスに乗る。スーパーの残飯の入ったおけを車に積む仕事。昼休み、同僚に溶け込もうと話しかけ、同じ障害者らとの交流活動に加わりリーダーになった。「実習からパートへ」と声がかかった途端、原発事故が起きた。
避難先では当初、仕事がなく、テレビを見て過ごす時間が多かった。今年4月、園内でボールペンを組み立てる軽作業が可能になったが、「もっと体を動かす仕事がしたい」との思いが強まった。
このころ初めて富岡町のグループホームに一時帰宅すると、屋内には動物のふんが点々と落ち足の踏み場もなかった。「ここには戻れないんだ」。同僚も全員解雇されていた。支援担当職員に「父のいる福島に帰って仕事がしたいです」と打ち明けた。
そして福島県郡山市の賄い付きの下宿に入り、就労支援事業所を通じて始めた清掃の仕事。8月6日、JR郡山駅近くの高齢者向け住宅の空き室で、作業着姿の吉田さんは汗だくになっていた。「見えないところも丁寧に拭いてください」「はい」
障害者の同僚男性2人と支援スタッフが共に動く。時給660円、平日5時間半の一般雇用契約。郡山を選んだのは、福島市に集団避難する父の老人ホームが郡山市内の福祉仮設住宅に移るからだ。
原発周辺で職を失った障害者は250人以上。吉田さんは言う。「不安もありましたが『働いて食べる』のが一番。自分を通したかったんです、仕事をする自分を」
毎日新聞 2012年09月29日 東京夕刊
男性は吉田茂士(しげじ)さん(44)。富岡町の知的障害者施設「光洋愛成園」の系列グループホームで暮らし、町内の肥料工場で働いていた。原発事故で同園と系列施設の障害者や職員ら100人余は約220キロ離れた群馬県高崎市の国立知的障害者施設「のぞみの園」に集団避難を余儀なくされた。
普通中学を卒業した吉田さんは金属部品加工などの会社に就職したが、周りのペースについていけず退職。障害者施設に一時入所した後、宮城県内の漁師宅に住み込んで約20年間、カキの水揚げをした。この間、母を亡くし、独りになった父を案じて6年前に富岡に戻り、グループホームへ。就労支援施設に通い、3年前から残飯を堆肥(たいひ)化する企業で職場実習を始めた。
朝、洗濯をすませバスに乗る。スーパーの残飯の入ったおけを車に積む仕事。昼休み、同僚に溶け込もうと話しかけ、同じ障害者らとの交流活動に加わりリーダーになった。「実習からパートへ」と声がかかった途端、原発事故が起きた。
避難先では当初、仕事がなく、テレビを見て過ごす時間が多かった。今年4月、園内でボールペンを組み立てる軽作業が可能になったが、「もっと体を動かす仕事がしたい」との思いが強まった。
このころ初めて富岡町のグループホームに一時帰宅すると、屋内には動物のふんが点々と落ち足の踏み場もなかった。「ここには戻れないんだ」。同僚も全員解雇されていた。支援担当職員に「父のいる福島に帰って仕事がしたいです」と打ち明けた。
そして福島県郡山市の賄い付きの下宿に入り、就労支援事業所を通じて始めた清掃の仕事。8月6日、JR郡山駅近くの高齢者向け住宅の空き室で、作業着姿の吉田さんは汗だくになっていた。「見えないところも丁寧に拭いてください」「はい」
障害者の同僚男性2人と支援スタッフが共に動く。時給660円、平日5時間半の一般雇用契約。郡山を選んだのは、福島市に集団避難する父の老人ホームが郡山市内の福祉仮設住宅に移るからだ。
原発周辺で職を失った障害者は250人以上。吉田さんは言う。「不安もありましたが『働いて食べる』のが一番。自分を通したかったんです、仕事をする自分を」
毎日新聞 2012年09月29日 東京夕刊