ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

小野智華子選手を誇る

2012年09月11日 02時12分02秒 | 障害者の自立
 パラリンピック競泳、17歳の日本代表アスリート、小野智華子選手が挑んだロンドン・パラリンピックが終了した。
 彼女が挑戦したのは視覚障害者の競泳だ。
 私にはオリンピックやパラリンピックでの選手経験はない。しかし、コーチやサービスマン、報道での参加経験はあるから、世界最高レベルの大会が持つ光と影の濃さは知っている。
 今回、彼女が挑んだのは4種目で、最高成績は100m背泳ぎの8位入賞だ。
 ただ、私が驚嘆するのは全4種目で彼女が自己記録を更新したことだ。普通、こんなことはありえない。大会の規模が巨大になればなるほど、自己記録を更新する確率は低下する。オリンピックやパラリンピックレベルでは、その確率は30%ぐらいだろう。
 国民の目線も「せめて、自己記録は更新してくれよな」と思うもので、確率の低さなどは無視するのだ。
 オリンピックには魔物が棲む。オリンピックやパラリンピックには「オリンピック病」という伝染病が蔓延するとも言われるが、それらはすべて選手の心の揺れから来るのだと思う。   
 選手村にいても、競技会場でも、個人の時間などはない。毎日が合宿で、起床・消灯・食事時間も決められ、ちょっと一人になりたいと思っても無理なことだ。また日本人に辛いのは、選手村の部屋にはバスルームはなくシャワールームがほとんどだ。日本人は肩まで湯に浸かることが、最高の気分転換になる。
 さらに彼女が成し遂げたことを知るために、私たちが想像力をいっぱいに高めて視覚がないと考えてみると、「そんなことはありえない」という解答しか出てこない。
 彼女を知ったのは、民放TV局が制作した特番だった。その日、はじめて母が娘を一人で学校へ行かせるシーンだった。母は遠くから見守っている。「一人で行けるようにならないとだめなのよ。自立しなければいけないの。私たちはいつまでも一緒にはいられないの」母の背中がそう語っているようだった。
 だからこそ、凄いことなのだ。全4種目に出ることも凄い。それは競技日が全期間に及ぶことだ。それだけ、心身のコントロールが大変な作業になる。そして彼女は全4種目で自己記録を更新した。それは自立した証明だ。
 物心ついたころから、ひとつひとつの出来事に「橋をかけて」渡ってきたのだろう。そしてついに彼女が言ったように、自分の力で「パラリンピックに橋をかけた」のだ。
 北海道民は、今目を閉じて心の目であなたを見ようとしている。それは老若男女の区別はない。
 心眼で見れば、あなたが切り開いた道が見える。あなたが架けた橋が見える。
 だから、北海道民はあなたを誇りに思えるのだ。


プロフィル  伊藤 龍治
1947年札幌生まれ。札幌啓明中では夏は野球、冬はスキー。旭丘高では夏はバスケット、冬はスキー。「スポーツ二毛作」実施者。早稲田大でスキー。日本初のアルペンサービスマン、世界初のジャンプワックスマンは自称ながら事実。スキーで4年おきの「骨折五輪」に3度出場。全日本アルペンコーチ。北海道新聞に「いい汗いい話」を12年半執筆。テレビ、ラジオ、講演などスポーツジャーナリストとして活動中。


北海道新聞 (ブログ) - 2012-09-10 10:51|

村木氏、厚労省に復帰 社会・援護局長に

2012年09月11日 02時04分13秒 | 障害者の自立
 自称障害者団体の郵便不正事件に関連して逮捕・起訴され、裁判で無罪判決が確定した村木厚子氏(56)が10日、厚生労働省に復帰した。無罪判決からちょうど2年。福祉分野を担当する社会・援護局長として生活保護制度改革などに取り組むことになる。

 村木氏は雇用均等・児童家庭局長だった2009年6月に逮捕されたが、10年9月に無罪判決を受けた。その後、内閣府の政策統括官として、税・社会保障一体改革の子ども子育て分野に取り組んできた。

 この日登庁した村木氏は記者団に「古巣に戻ったなという感じがする。当初の気持ちに戻ってしっかりやれということだと思う」と述べた。さらに「生活保護はいろいろなことが指摘されているが大事な制度なので、自治体や現場で苦労している方と意見交換して、制度のあり方を考えていきたい」と話した。


社会・援護局長として厚生労働省に復帰した村木厚子氏=10日、東京・霞が関

朝日新聞 - 2012年9月10日15時12分

救急用の「会話」指さしノートで

2012年09月11日 01時59分10秒 | 障害者の自立
  事故などの救急現場で、聴覚障害を持つ人とコミュニケーションをとるための「指さしノート」を、熊本市消防局中央消防署の内田貴則さん(27)が作った。九州各地の消防職員が集まる意見発表会で九州最優秀賞となり全国大会に出場した。市消防局は各消防署でも生かせるようにと8月、全署にノートを配布した。「障害者に対する救急医療の理解や認識が広がれば」と内田さん。9月9日は救急の日。


  ノートはA4判の34ページ。痛みの種類を、イラストで表した。「刺すような」は体に針を刺し、「締め付けるような」は頭と胸をヒモで縛り、「押さえつけるような」は大きい石を載せている。痛む箇所は胸や脇腹などが赤くなったイラストで伝える。行きつけの病院も大きな文字で羅列した。ラミネート加工で、筆談もできる。


  内田さんがノートを作ったきっかけは新人時代の救助体験。2010年に入隊して2カ月ほどたったある日、若い男性が交通事故で足をけがしたとの119番通報があった。現場に急行し話しかけると手話を使い始めた。消防学校で習った手話を試したが、お互いの意思を確認できなかった。身ぶり手ぶり、筆談をしても欲しい答えが返ってこない。不安そうな顔が、しばらく頭から離れなかった。


  言語聴覚士の資格を持つ姉に相談すると「病院には患者との指さしノートがある」と教えられ、救急用も作ろうと取りかかった。


  イラストの並び順や質問項目などは先輩隊員の救助体験を聞き、聾(ろう)学校にチェックしてもらい改良を重ねた。質問だけではなく、こちらが何をするか伝える項目も加えた。聾の人は手話で数える時に上から下に数えるので、横に並べていた数字を縦にした。


  勤務の合間や休みを利用し、現在の形になるまで1年半以上かかった。すでに救助現場で数十回使われた。「使ったら、ホッとした顔してたよ」という隊員の声を聞くと作って良かったと思う。「患者にとって、救急隊員は最初に接触する医療者。『あぁ、助かった』と思ってもらいたい」


  現在は英語、中国語、韓国語版を作っており、高齢者用も検討中。介護施設などにも利用を広げたいという。


緊急事態を想定して救急車の中でノートを使用する内田貴則さん(右)=熊本市中央区

朝日新聞 - 2012年09月10日

車いすテニス国枝連覇 パラリンピック 「最高の大会」閉幕

2012年09月11日 01時55分51秒 | 障害者の自立
 【ロンドン=鵜飼哲也】障害者スポーツ発祥の地ロンドンで行われた第十四回夏季パラリンピックは九日、五輪スタジアムで閉会式を行い、十二日間の大会を終えた。次回は二〇一六年にブラジル・リオデジャネイロで開かれる。 

 八日には、車いすテニスの男子シングルス決勝で、国枝慎吾選手(千葉県柏市)が連覇を達成した。日本のメダル総数は金銀各五、銅六の計十六個。目標とした北京大会の二十七個を下回った。

 閉会式で日本選手は百十八人が参加。金メダルを獲得したゴールボール女子の小宮正江主将が旗手を務めた。大会には、史上最多の百六十四の国と地域から四千三百人の選手が参加し、二十競技五百三種目を実施。閉会式で国際パラリンピック委員会のクレーブン会長は「これまでで最高の大会」と述べた。

東京新聞 - 2012年9月10日 夕刊

日本人トップ4位の岡村「4年間ですべてやりつくした」=パラリンピック・マラソン

2012年09月11日 01時50分32秒 | 障害者の自立
 ロンドンパラリンピック最終日となる9日(現地時間)、男子マラソン(視覚障害)がロンドン市内の「ザ・マル」を発着点とするコースで行われ、岡村正広(千葉盲学校)が2時間28分51秒で日本人最高の4位でゴール。続く5位に2時間40分08秒で和田伸也(大阪府視覚障害者福祉協会)が、7位に2時間42分09秒で高橋勇市(アイ・ティ・フロンティア)が入り、出場した日本人3選手はいずれも入賞を果たした。

■コースに苦戦するも、好記録に晴れやかな表情の岡村

 日本人トップの岡村は、これまでのパラリンピック記録を1分41秒上回る好タイムをマーク。しかし、優勝したスアレス・アルベルト(スペイン)が2時間24分50秒の世界新記録をマークするなど全体的にハイペースだったため、メダルにはあと一歩届かなかった。「(メダルまで)もうちょっとでした。残念です」と語りながらも、「このコースにしてはいい記録だと思います」と充実した表情を見せた。

 岡村は弱視で、伴走者なしで走ることはできるが、コースには苦戦した様子。非常に特徴の多い周回コースで、石畳のゴツゴツした路面に加えて、曲がり角が多く、道幅も狭い。さらに、快晴だったロンドンの日差しが容赦なく照りつけた。
「日差しが強くて、日なたから日陰に入ると一瞬何も見えなくなる。そこに神経とスタミナを使ってしまいました」。
 特徴の多いコースに加え、日差しという大きな敵が立ちはだかった。単独で4位を走っていた32キロ付近では転倒してしまい、右肩には痛々しいすり傷ができていた。

■障害進行も岡村を支え続けている“走る”ということ

 中学から陸上を始め、競技人生の長い42歳の岡村だが、選手としてパラリンピックに出るのは今回が初めて。前回の北京大会では伴走者としてレースに出場したが、この4年間で視力低下が進み、選手として出場することになった今大会を「集大成」と位置付けた。自身が「この4年間ですべてやりつくした」と語るほど、自信を持って臨んだレースで4位入賞を果たした。

 先頭争いからは20キロ付近で脱落してしまったが、「周りからの声援、注目のされ方は(伴走者の時とは)別物ですね。雰囲気は十分に味わえました。自分の力を出し切ったので、満足しています」と、岡村は選手としてのレースを堪能した。今後は、競技としてマラソンを続けるかは未定だが、ランニングをやめることはないという。

「障害が進む中で、走ること、マラソンは生きがいです」。

 ゆっくりではあるが、今もじわじわと視力は落ちている。その状況下で、岡村を支え続けているのが“走る”ということなのだ。

 ロンドンでの自らの走りに満足そうな笑顔を見せて、岡村は会場を後にした。


伴走者から選手となって出場することになったロンドンの舞台。岡村は、見事に日本人トップの4位で入賞を果たした

スポーツナビ - 2012年9月10日(月)