ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

マラソン、日本勢はメダルならず パラリンピック最終日

2012年09月10日 02時44分30秒 | 障害者の自立
 ロンドン・パラリンピック最終日は9日、陸上マラソンがあり、女子車いすの土田和歌子(サノフィ・アベンティス)は中盤で転倒し、1時間49分2秒で5位に終わった。シャーリー・ライリー(米国)が1時間46分33秒で優勝した。男子車いすは副島正純(シーズアスリート)が1位と4秒差の1時間30分24秒で4位、花岡伸和(プーマジャパン)が1時間30分26秒で5位、洞ノ上(ほきのうえ)浩太(エイベックス・マーケティング)が1時間31分13秒で6位。男子視覚障害は岡村正広(千葉盲学校)が2時間28分51秒で4位、和田伸也(大阪視覚障害者福祉協会)が2時間40分8秒で5位だった。8日の準決勝で豪州に負けた車いすラグビーの日本は3位決定戦で米国に43―53で敗れた。

 8日の第11日では、車いすテニス男子シングルス決勝で国枝慎吾が第1シードのステファン・ウデ(フランス)を6―4、6―2で破り、2大会連続の金メダルを獲得。陸上男子200メートル(車いす)では伊藤智也(三重)が今大会3個目の銀メダルを獲得した。

 今大会で日本が獲得したメダルは金5、銀5、銅6の16個だった。

朝日新聞--2012年9月10日0時45分

チームGBの盛り上がりを2020年チームJAPANにも期待!=パラリンピック

2012年09月10日 02時39分58秒 | 障害者の自立
■地元選手への熱狂はパラリンピックでも変わらず

 12日間の日程で行われるロンドンパラリンピックは5日(現地時間)で8日目を終え、後半に突入した。約1週間、取材してきた中で気になっていることがある。それは、「チームGB」への英国国内の盛り上がりについてである。

 今回は英国開催だから、もちろん地元「Great Britain」が盛り上がるのは自然なことだし、観客に地元英国の人が多く、他国の選手よりも地元出身の選手に、より大きな声援が注がれるのは自然なことだと思う。しかし、その声援が本当にすさまじい。声援というよりは、地鳴り、あるいは悲鳴という言葉のほうがしっくりくる。屋内で行われる競技では、足でバタバタと「足拍子」が踏まれると、鉄骨で組まれた客席が崩れ落ちるのではないかとソワソワするほどだ。

 加えて、英国の選手が勝とうが負けようが、スタジアムからの帰り道ではテンション高く歌いながら小躍りしていたり、ハイタッチしている人を多く見かける。まさにワールドカップなどでサッカー日本代表が勝った時の、渋谷のスクランブル交差点状態だ。私が取材後に疲れてとぼとぼ歩いてると、ハイタッチを要求されたりして、ややそのテンションに戸惑ってしまう。

 もちろん連日、現地の新聞でも大きくパラリンピックが取り上げられ、金メダルを取った選手はスポーツ紙の一面を飾っている。

 私は今まで五輪やパラリンピックを、日本のテレビや新聞を通してしか見たことがないので、これが果たして普通のことなのか、それともロンドン大会が特別なのかが分からない。ただ、ロンドン五輪に取材に行った記者も、「チームGBはすごい」と口をそろえていたので、英国民の盛り上がりに並々ならぬものがあるのは確からしい。

■2020年の東京でこの熱狂を起こすことができるのか?

 2020年に東京で五輪とパラリンピックが行われた場合、日本ではどうなるんだろう、とふと考えてしまう。先の五輪でそうであったように、日本人は「日本代表」というものに愛着があって、連日マスコミが報じ、盛り上がりを見せることは想像できる。しかし、それは五輪に限ったこと。パラリンピックについてどれだけ報道されるのか、平日の昼間から自国の出ていないパラリンピックの試合を満員にできるのか……。

 これは不思議に思っていたことでもあるのだが、ロンドンパラリンピックでは平日の昼間から会場はどこも大混雑。観客席には子ども連れや若いカップル、熟年夫婦まで老若男女が集っている。この人たちは働いていないのか……。そういうことはないと思うが、世界でも極めて勤勉だと言われる日本人が平日の昼間に、たとえば日本選手が出場できなかった種目などでスタジアムをいっぱいにできるか、やや不安になってしまう。

 しかし、よくよく考えてみれば02年に日韓共催で行われたサッカーワールドカップでは、日本以外の試合も全国各地で行われ、どの試合もチケットが入手困難だった。日本が決勝トーナメントまで勝ち進んだことも手伝って、日本中がサッカー一色になっていたし、それまでスポーツに興味のなかった人たちまでもが、こぞってレプリカユニホームを買いに走り、私も欲しかったユニホームが売り切れで買えなかった記憶がある。

 つまり、日本も「チームGB」に負けないくらいのパワーを秘めているのだ。普段はあまり世界に知らしめる機会がないが、チームJAPANとしての一体感や底力をアピールするチャンスを生かさない手はない。

 五輪とパラリンピックの自国開催というのは、国にとって大きな出来事である。20年東京で開催されることになったら、平日だろうと日本の試合でなかろうと、五輪であろうとパラリンピックであろうと、精いっぱいの声援を送りたいものだ。開催国が決まるのは来年の9月7日。その結果がますます待ち遠しくなった。

スポーツナビ ) 2012/9/6 11:30

前人未到の4連覇、女王エスター・バーガーが涙の金メダル=車いすテニス

2012年09月10日 02時33分22秒 | 障害者の自立
■プレッシャーに打ち勝っての偉業 連勝記録も470に

 車いすテニス界の「女王」がまたひとつ、歴史を塗り替えた。ロンドン・パラリンピック第10日の7日(現地時間)、女子シングルス決勝で第1シードのエスター・バーガー(オランダ)が第2シードのアニク・ファンクート(オランダ)を6−0、6−3で破って優勝。パラリンピック4連覇の偉業を達成したと同時に、これまでの連勝記録を「470」に更新した。

 2003年からただの1度も負けていない、車いすテニス界の絶対的なクイーン。いつもコートの上ではあまり感情を出さず、クールな表情で淡々とプレーする。それが、バーガーの印象だ。決勝という大舞台でも、彼女はいつもと変わらないように見えた。とはいえ、バーガーにとっても「いつだって、パラリンピックは格別」。他の選手と同様に、いやディフェンディングチャンピオンとしてそれ以上に大きな何かと戦っていたであろうことは容易に想像できる。

 表彰台の真ん中で金色に輝くメダルを手にした時、そしてオランダの国旗がセンターポールに掲げられた時、彼女は大粒の涙をこぼした。

「北京のあと、メンタルを保ち続けるのがとても難しかった。たぶん、今までで1番。四六時中テニスのことを考えていたから、プレッシャーにつぶされそうだった」

■最強女王と同国のライバルの対決となった決勝


 オランダ・ウルデン出身のバーガーは、8歳の時に脊髄近くの血管からの出血で大手術をしたが対麻痺が残った。リハビリとして始めたバレーボールや車いすバスケットボールと並んで、12歳から車いすテニスを習った。1998年には車いすテニスだけに絞り、本格的に競技をスタート。同年の全米オープンで優勝し、世界ランキングは15位から2位にジャンプアップした。そして、翌99年から現在に至るまで、世界ランキング1位の座を守り続けている。

 今年3月30日から4月3日にかけて行われたペンサコーラ・オープン(米国)の決勝では、ロンドンの決勝でも対戦したファンクートに1セットを奪われた。結局はしっかり勝利しているのだが、それでもオランダではニュースになったほど。彼女が別格の強さであることを物語っている。

 一方、ロンドンで今度こそバーガーに土をつけることができるかと期待されたファンクート。決勝では第1セットこそゲームを奪えなかったが、第2セットで逆襲。前に出てくるバーガーに対して矢のようなクロスのショットを打ち抜いてリズムを得ると、0−4から2ゲームを連取し、第8ゲームも奪った。だが、バーガーは動じなかった。形勢不利な場面でも華麗なチェアーワークでボールに追いつき、一打で波を引き寄せるスーパーショットを連発。しぶとく粘るファンクートを突き放した。

 試合後、ファンクートは報道陣にこう話した。
「第1セットは私の望み通りに進まなかったけど、第2セットは少しは不安を抑え込めてうれしかった。まさかエスターが負けるわけないと思っていたでしょ? 銀もいいけど、私はいつの日か金を手に入れる。ハードルを上げて、次回の私の目標は金メダルを取ることよ」

 どんなスポーツでも、チャンピオンの陰にはリベンジに燃えるライバルの存在がいるものだ。

■子ども対象のテニスクリニックも主催

 バーガーはプロの車いすテニス選手として活動するする傍ら、26歳の時に自身の財団“ハンズアップ”を創設した。車いすテニスのクリニック開催と、障害を持つ子どもたちにスポーツの機会と自信を与えるのが目的だ。

 彼女自身、8歳で手術を受けた後はひとりでは服も着られず、シャワーも浴びることができないという事実に直面した。それがスポーツを始めると肉体的にだけではなく精神的にも強くなっていった。

「私は、スポーツを始めた時にどんなにうれしかったかを覚えてる。スポーツが子どもたちに新しい道を開き、自信をもたらすということを伝えられたらって思うわ」

 現在、31歳。20代のころに焦点を当ててきたラリーなど技術の向上より、戦略的なゲーム展開を身につける練習にスイッチしているという。試合後の記者会見でロンドン後について尋ねられると、「私も長い間、何度もそれを考えてきたけど、継続するか引退するか、正直なところまだ決められない」と明言を避けた。

 パラリンピック最終日には、ダブルスの決勝戦に挑む。バーガーは、ダブルスでもシドニー、アテネで優勝、北京で銀メダルを獲得している。そのメダルコレクションに、1番きれいな色のメダルをもう1個加えることができるか。その戦いに注目したい。

(スポーツナビ ) 2012/9/8 11:20

「4年間で最高のJAPANを」メダル懸け3位決定戦へ=ウィルチェアーラグビー

2012年09月10日 02時29分29秒 | 障害者の自立
■過去2大会のリベンジを誓って臨んだロンドン

 ロンドンパラリンピック大会11日目の競技が8日(現地時間)、オリンピックスタジアムなどで行われ、ウィルチェアーラグビー準決勝で日本はオーストラリアに45−59で敗れ、米国との3位決定戦に回ることになった。

 金メダルの夢はここでついえた。過去2度出場したパラリンピック、アテネは最下位の8位、北京でも7位に終わった。しかし、悔しさを力に変えて、2010年の世界選手権(カナダ)では過去最高の3位銅メダルを獲得。強い意気込みで臨んだ大会だった。

 迎えた準決勝は、北京大会2位のオーストラリアが相手。世界ランキング4位の日本は池崎大輔(北海道Big Dippers)、仲里進(フィールズ)、官野一彦(千葉市役所)、岸光太郎(障害者在宅事業グループ)の4人が先発した。

 ウィルチェアラグビーでは車いすの操作や障害のレベルにより、障害の持ち点が0.5〜3.5点の7段階に分類され、障害が軽度なほど持ち点が高くなる。そして、コート上の4選手の持ち点の合計は8.0点を超えてはならず、障害の軽い選手だけでチームをつくることができない。日本はハイポインターの池崎(3.0)が果敢にゴールを狙い、仲里(2.5)と官野(2.0)がパス出しなどの役割を担い、ローポインターの岸(0.5)が守備に集中した。

 各選手に持ち点があるところが、この競技の特徴となっている。バスケットボールコートほどの大きさで、ボールを相手ゴールに持ち込むことで得点が生まれるウィルチェアラグビー。それぞれが与えられた役割をしっかりとこなすことができなければ、得点にはつながらない。
 ハイポインターの池崎が得点を奪うためには、仲里や官野からのパスを受ける必要があり、池崎がゴールへと向かうためには、その進路をバスケットのスクリーンプレーのように体を張ってつくる岸の動きが重要となる。“One for all, all for one” (一人はみんなのために、みんなは一人のために)というラグビーの精神はここにも表れている。

■徹底マーク、激しいプレッシャーに封じられたエース池崎

 試合が始まると、開始早々に日本は池崎が決めて先制。しかし、その後はオーストラリアを追う展開となった。車いすごとぶつかり合う「タックル」が認められ、その当たりの激しさから“マーダー(殺人)ボール”とも呼ばれるこの競技。オーストラリアの「今までにない激しい」(池崎)プレッシャーの前に、日本は「強いプレッシャーを受けることで、ミスが続いた」(岩渕典仁ヘッドコーチ)と攻守ともに受け身に回り、23−29と6点のビハインドで前半を折り返した。

「(点差はあったが)出ている4人は負けていないと思っていた。やろうと思っているところは出せていた」(仲里)。逆転での決勝進出を目指して、後半に臨んだ日本。だが、オーストラリアの守備に手を焼き、得点を伸ばせない時間帯が続いた。

 「3枚ついてくるときもあった。切り替えが早かった」(池崎)。ハイポインターの池崎を徹底的に封じにきたオーストラリアの前に、日本の攻撃は機能せず。一方で、オーストラリアは強さを生かして日本の守備をこじあけるように突破したかと思えば、当たりに来た日本選手の前で鮮やかにパスをつなぎ得点を重ねた。疲れと焦りから「プレーが雑になった」(池崎)日本とオーストラリアの差は徐々に開いていく。結局、後半で差はさらに開く形となり、日本の決勝進出はならなかった。

「ハイポインターの役割を果たせなかった」。試合後、チーム最多の24得点を挙げた池崎はうなだれ、チームの中心としてプレーした仲里は「やれていたところはあったが、一試合を通しでやるにはきつかった」と完敗を認めた。そして、池崎は「くやしい思いがある。スキル、スピード、パワーは相手が上だった。戦うには申し分のない相手。4年後待ってろよ! という気持ち」と続けた。

 翌日の9日には3位決定戦が待っている。前回金メダル、世界ランキング1位の米国が相手だ。「次が最後の試合なので、明日に向けて気持ちを切り替えたい。4年間で最高のJAPANを見せたいと思います」。悲願のメダル獲得へ。まだ気持ちは落ちていない。池崎は力強く意気込みを語った。

(スポーツナビ ) 2012/9/9 11:22

国枝慎吾、2連覇の偉業を成し遂げた「普段通りのプレー」=車いすテニス

2012年09月10日 02時21分19秒 | 障害者の自立
 車いすテニス男子シングルス決勝が8日(現地時間)、オリンピックパーク内のイートンマナーで行われた。数々の熱戦が繰り広げられたセンターコートで、新たな伝説が誕生した。国枝慎吾(ユニクロ)が第1シードのステファン・ウデ(フランス)を6−4、6−2のストレートで破って優勝。男子シングルス史上初となる、2連覇を達成した。

 対戦相手のウデは世界ランキング1位。試合巧者で150キロを超える強烈なサーブが持ち味だ。国枝も「彼のサービスゲームを破るのはたやすいことではない」と警戒する。ところが、この日のウデはファーストサーブの調子がいまひとつ。国枝は“作戦通り”に、セカンドサーブを精度のいいリターンでプレッシャーをかけ、ゲームの主導権を握った。

 大会前、丸山弘道コーチは「パラリンピックという聖域で通用するのは、自分を最後まで信じ抜ける力。普通ではない場所に、普通ではない選手が集まる。そこで普通でいられる人が、表彰台に上がれる」と話していた。そして、この日の国枝は「朝起きた時から落ち着いていた。普段のツアーの試合のようなプレーができた」。試合を通して4度のブレークに成功し、理想的な展開で試合を決めた。

strong>■敗れたウデ「シンゴとの試合は楽しいよ」

 北京で頂点に到達した後、一時は目標を見失った。だが、「もっと強くなりたい」と、プロ転向といういばらの道をあえて選び、新たなスタートを切った。順調にキャリアを重ねていたが、痛めていた右肘が昨年9月の全米オープンで悪化。ツアーを離脱し、今年2月には手術を受けた。「逃げ出したくなるほど」つらいリハビリを乗り越え、身体も一回り大きくなって、5月のジャパン・オープンで復帰した。

 これまでのウデとの対戦成績は、29戦して国枝の23勝6敗。復帰後のツアーでは、ウデに3連敗のあと2連勝して、ロンドンに臨んだ。その時の2勝はいずれもフルセットだったが、この日の決勝ではストレートでウデを倒した。互いに刺激し合う二人。試合後、ウデは国枝との戦いをこう振り返った。

「こんな試合のときには攻撃的なサーブをしなくちゃいけないが、何度か失敗したし難しかった。でも(負けて)残念なんてことはないよ。こんな激闘だったんだから、銀メダルで幸せだ。思うに、僕らはどちらも強くなり、より進化した試合ができた。シンゴのテニスについて? チェアーワーク、リターンが本当に素晴らしい。シンゴとの試合は楽しいよ。また二人で試合がしたい」

■「スコア以上に実力は拮抗」と国枝

 準々決勝でウデを苦しめた18歳の新鋭、グスタボ・フェルナンデス(アルゼンチン)をはじめとする若手選手の台頭が目覚ましい車いすテニス界。現在の勢力図は“戦国時代”の様相を呈している、と関係者は語る。今大会、1回戦から6試合を通して1セットも落とさずに優勝した国枝が頭ひとつ抜けている印象だが、「スコアの数字以上に、実力は拮抗(きっこう)している。ロンドンでも誰が勝っても不思議じゃなかった」と国枝は言い切る。

 そのなかで、国枝の強みとなっているのが、これまでに数々の厳しいトーナメントを勝ち上がり、タイトルを何度も取ってきたという“自信”だ。決勝についても、「前回の北京で金メダルを取ったという経験が、最後の最後で生きたと思う」と語った。

 誰も成し得たことのない、2度のパラリンピックチャンピオンという経験。それは、これからの国枝をさらなる高みへと押し上げることだろう。ロンドン後のプランについては、「考えたけど、答えが見つからないので帰って考えます」とだけ話したが、新たな領域への挑戦を期待せずにはいられない。

(スポーツナビ ) 2012/9/9 13:58