只管打書(しかんたしょ)

2010年03月02日 00時31分27秒 | 自分の意見の陳述
只管朗読は国弘正雄氏が道元の言う「只管打座(しかんたざ)」から編み出した造語です。この国弘氏は、書くこともよくやったと言っておられます。私は、中学生の時には、読んで書いてという勉強をよくやったと記憶していますが、正直言って、書くのはあまり好きではありません。面倒くさいと思うし、書いた字がまったく下手くそだときている。時間のむだと思えることが多い。そんあことであまり書きいとはおもわないのです。正確には、のでした、と、過去形で申します。

ところが、最近認識を新たにしました。書くということには、自分で意識する以上の大きなパワーが秘められているのではあるまいか、というように思い始めたからです。

意識できる効用としては、「あいまいに覚えていた単語がはっきりとする」などの事が、もちろんあります。けれども、書くことの効用は、それよりも深く大きい大きいのではあるまいかとこのころふと感ずるのです。わからない単語など何もなくてもです。

それは、こういうことです:

書くというときには、理解している文章を書いているのだから、積極的に頭がはたらいているわけではない場合、時間も結構多いのです。が、そのときでも、腕の筋肉は動いています。英語を口で私がしゃべる時、それがなめらかなしゃべりの場合、わたしの頭から口になにか指示が特別出ているわけではないように思われる。口で勝手にしゃべっている、かってにうごいているという感じです。これはいい状態す。とくに意識しないのだが、ある話したい内容がほぼ意識されれば、そこまでは頭の働きだが、そこから先の細かいことばの運用については、頭は関係なく、口がほぼ勝手に動く。・・・・うでの筋肉というところにはなにかがあって筋肉が記憶しているような事があるのではないか思われる。あるいは、脳の働きには個人の意識しないところでも働いている分野があるんだろうか。・・・英文を書いたあとは、英語の喋りがなんと速くなることか。なんでこんなにスムーズに口が動くのだろう、と思うことがある。

日本語に達者なある大人(プロ歌手)が、コンサートのため他者の40曲の歌詞を覚えなければならない時があり、そのときは書いて覚えるのが一番だと言っていたのを思い出しました。ある英語の抜群にうまい人は、スピーチを頭で考えたとは言いませんでした、飛行機のなかで書いてみたと言っていました。

書くということは、すでにわかった英語であり、時間が無駄なようにも思うのですが、偉大な力の源泉をひそかに形成する力を秘めているみたいである。

私の英語に文法の間違いはないはずだと国弘氏は言われたが、中学時代には紙の上に何回も英文を書いたそうです。重ねて何回も同じ紙に書くから、二度目は赤の字で書いたそうです。

私も中学生の初めのころそうしたものでした。読んで書いてを、繰り返していました。

最近、只管朗読+只管打書が大事なことだと改めて最近気づいたのですが、この方法論というのは、実は私が英語を習い始めたころ、中学一年生のときに、実はやっていた方法論でもある。しばらく、その原点を忘れていたということになるのだろうか。
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