私は英語を勉強しているわけですが、英語でもって人前で話をすることができるようになったと自分で一応満足してもいいといえるのは、どのような状態になったときであるかと、考えたことがあります。
答えは:
「話す内容をいつでも原稿化できる。完全でなくても、ポイント的、レジメでもいいからすぐ作れて、それを見ながらでいいから、人前で、通じる英語でしゃべれる。この場合、原稿、ないしはレジメの紙を見てもいい。→原稿なりレジメをつくれるためには、英語が読めなくてはいけない。→自分が話す分野については、日本語でも英語でもそれなりの知識が必要であり、英語での読書経験が必要である。」
このことを逆に言うと、知識→英語での読書→作文力→しゃべりの力 ということになります。
作文にあたっては、introduction, body, conclusionを考える。
しゃべる内容を暗記などする必要はないのだと思います。日本では原稿を見ずにすらすらしゃべるのがうまいしゃべり手だという見方もなくわないし、わたしもそのことにどれだけコンプレクスを感じたことでしょう。けれども英語の世界では、paperをみながらしゃべるのは恥ずかしくないとのことです。そのほうが丁寧であると評価されるようです。ならば、問題は作文能力ではないかということになります。で、ここまでくると、いざというときは原稿がなくても、それなりのスピーチはできるようになる、ということではないでしょうか。
ここで大事な事は、スピーチ能力の基盤に書く力、よむ力があるということです。そこを鍛えざるを得ないのです。
答えは:
「話す内容をいつでも原稿化できる。完全でなくても、ポイント的、レジメでもいいからすぐ作れて、それを見ながらでいいから、人前で、通じる英語でしゃべれる。この場合、原稿、ないしはレジメの紙を見てもいい。→原稿なりレジメをつくれるためには、英語が読めなくてはいけない。→自分が話す分野については、日本語でも英語でもそれなりの知識が必要であり、英語での読書経験が必要である。」
このことを逆に言うと、知識→英語での読書→作文力→しゃべりの力 ということになります。
作文にあたっては、introduction, body, conclusionを考える。
しゃべる内容を暗記などする必要はないのだと思います。日本では原稿を見ずにすらすらしゃべるのがうまいしゃべり手だという見方もなくわないし、わたしもそのことにどれだけコンプレクスを感じたことでしょう。けれども英語の世界では、paperをみながらしゃべるのは恥ずかしくないとのことです。そのほうが丁寧であると評価されるようです。ならば、問題は作文能力ではないかということになります。で、ここまでくると、いざというときは原稿がなくても、それなりのスピーチはできるようになる、ということではないでしょうか。
ここで大事な事は、スピーチ能力の基盤に書く力、よむ力があるということです。そこを鍛えざるを得ないのです。