ファミレスにて食事中。
車椅子に乗った少年が来店。
いろんなものを頼んでいました。
食べっぷりも“みごと”おいしそうに食べています。
まあごく普通にどこにでもある光景。
でも、入り口のドアとか、食事のテーブルにつくとき、ちょっと大変だったようで。
「バリアフリー」というコトバはもうすっかり定着しているが、細部にわたってはまだまだのようで。
老若男女・たとえ障害を持っている人でも、普通と変わらぬ行動ができて、決して障害となる事はあってはならない。
でも、もう1つ忘れてならないのが「意識」の問題。
バリアフリーによって物事には障害がなくなってきてはいるが、たとえば「車椅子の・・・・・」という“見方”考え方。じろじろ見てはいないだろうか。特別視はしていないだろうか。
“気遣う”うえでの視点は“助け合い”の精神から良いと思うが、「車椅子の・・・・・」という見方は是正しなくてはいけないんじゃないかな。
同じ社会の下での人間同士を違った“眼”で見てはいないだろうか。
以前「車輪の一歩」という秀作ドラマでの場面を思い浮かべながら、少しずつでも意識を変えなきゃ。
当たり前の生活のうえで、みな成り立っているのだから。
車椅子に乗った少年が来店。
いろんなものを頼んでいました。
食べっぷりも“みごと”おいしそうに食べています。
まあごく普通にどこにでもある光景。
でも、入り口のドアとか、食事のテーブルにつくとき、ちょっと大変だったようで。
「バリアフリー」というコトバはもうすっかり定着しているが、細部にわたってはまだまだのようで。
老若男女・たとえ障害を持っている人でも、普通と変わらぬ行動ができて、決して障害となる事はあってはならない。
でも、もう1つ忘れてならないのが「意識」の問題。
バリアフリーによって物事には障害がなくなってきてはいるが、たとえば「車椅子の・・・・・」という“見方”考え方。じろじろ見てはいないだろうか。特別視はしていないだろうか。
“気遣う”うえでの視点は“助け合い”の精神から良いと思うが、「車椅子の・・・・・」という見方は是正しなくてはいけないんじゃないかな。
同じ社会の下での人間同士を違った“眼”で見てはいないだろうか。
以前「車輪の一歩」という秀作ドラマでの場面を思い浮かべながら、少しずつでも意識を変えなきゃ。
当たり前の生活のうえで、みな成り立っているのだから。