昨日取り上げた船橋市の「焚書坑儒」事件について、朝日新聞が社説で触れている。
何せ廃棄された書籍の著者は、朝日の大嫌いな人たちばかりである。
だから、本来であれば、最高裁の判決に猛然と食ってかかりたいところだろうが、如何せん判決は至極当然のもの。
逆に一審・二審は何をやっていたのだ、と思えるくらいなので、朝日としてもあからさまに反論するわけにはいかない。
だから、どうしても主張が妙におとなしいものになってしまっている。
これが、反日日本人の著作に対して同様の行為が行われたとしたら、それこそあらゆる手段を使って、これに抗議したに違いない。
まず『船橋市には図書館の本を処分する基準がある。破損が激しく補修できないときや、内容が古くなり資料的価値がなくなった場合などだ。だが、廃棄された本はどれにもあてはまらなかった』などと、廃棄の理由が図書館基準にあてはまらないことを書いている。
しかし、そんなもの、もともと裁判の争点などにはなっていない。
司書であるバカ女が、「悪意」をもって廃棄したことが明白なので、それが著者にとって、どれだけ表現の自由を傷つけるものであったかが問題なのだから。
朝日は、わざと争点をボカそうとしている。
しかも、このバカ女を擁護さえしようとしている。
『どのような本を備えるかは、それぞれの図書館が決める。集め方に不満を感じる職員や利用者もいるだろう』
まるでそのような考えを持つ人がいても当然だ、と言わんばかりだ。
さらに、今回の裁判では「つくる会」の教科書は直接関係がないにもかかわらず、『この裁判をおこした「つくる会」の教科書について、朝日新聞は社説で「近現代史を日本に都合よく見ようとする歴史観で貫かれ、教室で使うにはふさわしくない」と主張してきた。だからといって、会の関係者らの著作が図書館から消えていいとは思わない』などと、わざわざ『「つくる会」の教科書はふさわしくない』という主張まで、さらりと入れている。
だいたい、こういう書き方をするのは、「会の関係者らの著作が図書館から消えてほしい」と思っているからだろう。
いずれにしても、朝日の主張には説得力のかけらもない。
「つくる会」の教科書をこの世から抹殺しようとしている人間が、どうして今回の裁判についてどうこう言えようか。
何せ廃棄された書籍の著者は、朝日の大嫌いな人たちばかりである。
だから、本来であれば、最高裁の判決に猛然と食ってかかりたいところだろうが、如何せん判決は至極当然のもの。
逆に一審・二審は何をやっていたのだ、と思えるくらいなので、朝日としてもあからさまに反論するわけにはいかない。
だから、どうしても主張が妙におとなしいものになってしまっている。
これが、反日日本人の著作に対して同様の行為が行われたとしたら、それこそあらゆる手段を使って、これに抗議したに違いない。
まず『船橋市には図書館の本を処分する基準がある。破損が激しく補修できないときや、内容が古くなり資料的価値がなくなった場合などだ。だが、廃棄された本はどれにもあてはまらなかった』などと、廃棄の理由が図書館基準にあてはまらないことを書いている。
しかし、そんなもの、もともと裁判の争点などにはなっていない。
司書であるバカ女が、「悪意」をもって廃棄したことが明白なので、それが著者にとって、どれだけ表現の自由を傷つけるものであったかが問題なのだから。
朝日は、わざと争点をボカそうとしている。
しかも、このバカ女を擁護さえしようとしている。
『どのような本を備えるかは、それぞれの図書館が決める。集め方に不満を感じる職員や利用者もいるだろう』
まるでそのような考えを持つ人がいても当然だ、と言わんばかりだ。
さらに、今回の裁判では「つくる会」の教科書は直接関係がないにもかかわらず、『この裁判をおこした「つくる会」の教科書について、朝日新聞は社説で「近現代史を日本に都合よく見ようとする歴史観で貫かれ、教室で使うにはふさわしくない」と主張してきた。だからといって、会の関係者らの著作が図書館から消えていいとは思わない』などと、わざわざ『「つくる会」の教科書はふさわしくない』という主張まで、さらりと入れている。
だいたい、こういう書き方をするのは、「会の関係者らの著作が図書館から消えてほしい」と思っているからだろう。
いずれにしても、朝日の主張には説得力のかけらもない。
「つくる会」の教科書をこの世から抹殺しようとしている人間が、どうして今回の裁判についてどうこう言えようか。
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