大阪水曜ほっと集談会一世です。
自宅に咲いていた薔薇が美しい。
おそらく普段から配偶者が世話をしてくれているのであろう。
それにしてもどこかの親父は口ばかりで全く役に立たない。「わたし」
さて先日集談会と呼ばれる私たちの自助グループの体験談で面白い話を聞いた。
森田療法をたとえて、洗い物療法という言葉を使われていた。
休日の朝などに洗い物をしていると嫌な感情が流れるそれを称して洗い物療法である。
面白いと思った。
しかしここでふと普段から家事を余儀なくされている主婦の方はどう思われるだろうかと気になった。
私は職場で家事を手伝っていますと誇らしげにいう、若い男子社員が大嫌いだ。
手伝うじゃねーだろ!
何事も自分のこととしてやらなければおそらく身につかないのではないか!
かくいう私も恥ずかしながら、子供の時は母親任せ、結婚してからも妻任せのわがまま放題、こういう人間が神経質症状で苦しむのはある意味必然であったと思う。
それが12年間の単身赴任生活で一変した。
手伝うレベルどころか生きるために必死にやらざるを得なかった。
以来、日々家事全般は自分でやるようにしている。
それが立ち直りの過程で大きな意味を持っているとわかったのは残念ながら還暦前であった。
森田博士は、実際に事にあたるということを盛んに言われている。
森田博士自身がひたすら研究ばかりされていたいたのではなく、飯炊き薪割りなどを寮生と実際にされていたのである。
理屈に偏りやすく、何事も手を出すことが億劫な神経質者の性格傾向をとことん理解した上で、まず生活面で自立するように誘導されていたのかもしれない。
森田療法のことを別名自覚療法とよぶことがある。
これからは、洗い物療法と呼ぶのも面白いかも?
いづれにしても、自分が当たり前にしてもらっていたことに、気づいたり、感謝したりする療法なのかもしれない。
※今日の森田博士の言葉
ここで私はもっとわかりやすくするつもりで、「ものそのものになる」とか、ままたそれは「我になりきる」といっても同様で、比較を離れて、絶対になるということを意味する。
そして、そのようになるには、私は「見つめる」とか「手を出す」とか教えて、なんでもその事に当たるようにする。
2024/05/08 一世