志津川小学校体育館が私と家族の避難先でした。
床に段ボールを重ねその上に配給の毛布を敷いての粗末な寝床です。
止めどなく続く余震、予測不可能な動きに恐怖を覚える日々が約一ヶ月ほど続きました。
自然の力には逆らうことできないと感じつつも、
こういう状況の下で団結やお互いの助け合いは、心を温め、また力強さ、優しいさを感じたものでした。
避難所での生活は自然と人々がまとまるんだなと、言葉で言い尽くせないほどの大切なことを経験しました。
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あの日、母は防災頭巾をかぶっていました。見渡せば身に着けているのは母だけです。
自分の手作りです。
私が小学校6年の時です、昭和35年5月チリ地震津波で川沿いの自宅が1F天井まで到達した津波で
被災しました。その時も四十数名が亡くなり...町中が津波被害で混乱したことが小さいながら心に残って
いました。たぶんその時から家族は防災意識が高くなったと思っています。
川沿いにある自宅です。津波リスクが大いにある環境でしたので町の毎年ある津波訓練やあらゆる災害情報には敏感でした。そんな中で育んだ防災意識が...母 手作りの”防災ずきん”だと思っています。
多分、チリ地震の経験した以後は夜寝る時は自分の枕元に備えていました。
「備える」ことは自分の命を安全安心に導く一つだと思っています。
南三陸 志津川小学校体育館