夕方から降りはじめた雨が雪へと変わり 泥濘(ぬかるみ)の雪に足をとられながらの自転車でした、
後を追いかけ ”たいへんだから私のお店に預けて行ったらと、”声をかけようとしたが、
一目散に進む様子には流石に躊躇しました。

この写真は数年前に撮ったものです、
我が家と役場(南三陸町)の間を通る路上からの撮影です。
右側の窓の付いた平屋の建物は町長専用の車庫です。
手前の車が駐車してる側が町長室があり役場本庁舎です。
我が家は左側軽トラック側です。
左側奥にもう一台の軽トラックの荷台が見えますが、その左横が我が家の駐車場です。
3.11の地震直後、そこから両親を車に乗せ高台に避難しました。
この駐車場を出るときこの路上に20~30人の役場職員が心配そうに佇みながら私たちが避難するのを、
後押しするように”早く逃げてと” .掛けてくれた声が....心に残ります。
まさか彼らの殆んが、悲報となるとは。

1・2・3枚の写真は同じ場所から撮っています。
1と2枚目の写真はデジカメ1眼レフに出会い、初めての一眼レフに感動しつつ気の向くままにバシャバシャの頃でした。
でも3枚目の写真まで撮ろうとは思わない人生と.........

南三陸 役場前 佐藤輪業商会

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ブログ内を散策し、気に留めた写真を再度アップしました。
1枚目の写真データは津波で流失してしまいました。
と言うより 全てのデータが流されました。
失ったものへの思いは...初めのころは強かったものでした.
ブログを続けてこられたのが...今となれば私の宝物になりました。
気が向いたときは、南三陸・海山川を散策し思い出を辿(たどる)ことにしています。
ですから、たまに以前の写真が ブログにチョコチョコ出てきますのであしからず(^^)
ところで、
震災後数か月たってから ある方に提供したCD6枚と
宮城県自転車組合の広報誌の表紙用に提供した2枚のCDのデータが戻りました、その時はすごく感激でした。
”志津川の美しい町の風景写真は” 我が家の貴重な”文化遺産”となった訳です。
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私たちの(入谷童子下仮設1期) 談話室にひびきわたるデザート・ムーン先生の子供たちへの力強さと励ましの掛け声、
彼の気持は、喜びと嬉しさに隠すことのない”笑み”でいっぱいです。

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”廻館教室”として書道と学習塾を営んでいた震災前でした。

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デザート・ムーンさんは震災後、志津川高校避難所代表として避難所閉鎖(8月末)まで半年もの長い間、
.皆んなのために行動しました。
その後ボランテイア活動に努力、高齢者の仮設を回り福祉補助用具を無償で取り付けています。
MODAN工房代表の小柳さんと月に数日間は二人で活動しています。
小柳さんは数年前、脳梗塞を患いました しかし体が不自由の身ながら遠い岐阜から、
デザート・ムーンを頼りに行動する姿は心打たれるものがあります。
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私とデザート・ムーンさんは震災前の”ずーッとずーっと”前からの古い付き合いです。
しかし彼は...自転車屋の私を技術的に認めません、口癖なのでしょうが95歳なる我が父を礼賛するのです、
なぜか古めかしい気持ちを持ち続ける....不思議なイイ奴なのです。
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南三陸 入谷 童子下仮設の裏山で撮りました (入谷・八幡神社)
3年前のこと...正月4日の夕方でした、
”ときわ”の前を通り過ぎようとしたとき....(たぶん近くのコンビニにビールを買いに行く時)、
この玄関先の窓越しに強烈なお正月の心地よさを感じました、
硝子戸の前、石畳に立ち。
つい...引き戸を開け”おめでとうございます”って気持ちでしたが、
訳は、女将の令子さんにお願いしての撮影となりました。
(当時、我が家では妻の母が前年6月に亡くなり喪中でした。)
まあ結局はコンビニの帰り中華料理”ときわ”のカウンターで博昭さんと令子さんと3人で新春時事放談の宴となりました。
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下の写真は3年前の同じ位置から...きょうの午後撮影しました。
しかし、ブログ投稿をためらったことは確かです。
でも、旅館”常盤”と中国料理”ときわ”はいろんな方に愛された南三陸を代表したお店です。
そして私たちの”地域の心のよりどころ”として支えてきた”ときわさん”です。
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”ときわ”の前を通り過ぎようとしたとき....(たぶん近くのコンビニにビールを買いに行く時)、
この玄関先の窓越しに強烈なお正月の心地よさを感じました、
硝子戸の前、石畳に立ち。
つい...引き戸を開け”おめでとうございます”って気持ちでしたが、
訳は、女将の令子さんにお願いしての撮影となりました。
(当時、我が家では妻の母が前年6月に亡くなり喪中でした。)
まあ結局はコンビニの帰り中華料理”ときわ”のカウンターで博昭さんと令子さんと3人で新春時事放談の宴となりました。
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下の写真は3年前の同じ位置から...きょうの午後撮影しました。
しかし、ブログ投稿をためらったことは確かです。
でも、旅館”常盤”と中国料理”ときわ”はいろんな方に愛された南三陸を代表したお店です。
そして私たちの”地域の心のよりどころ”として支えてきた”ときわさん”です。
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信じられない時の速さに心が痛みます、
あのとき親友の死に涙も流れず、流さず、抑えてきました。
仮設住宅に落ち着き正月を迎えた...今の私です、
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震災前...私のお店の二つ隣は中国料理”ときわ”さん
夕暮れ時となるとカウンターの止まり木にはいつも私が。
一日の終わりは彼のお店で”南三陸・まちなか情報談義”を日課としていました。
弾む話題は夜更けとなり、お互いの妻に叱られる羽目。
でも
3.11後、彼のご家族4人と永遠のお別れとなりました。
虚しさと悲しさと寂しさに気持ちを耐えてきましたが、
年が明けた元旦....きょうの日、一日中考えていました。
”中国料理ときわ”博昭さん、奥さん、ハルばあちゃんにノリ君のこと、
我が家とは家族ぐるみの付き合いでした。
家族全員亡くなった現実は認めますが、想いと思い出は永遠に生きていると信じます。
そして、
お互いの家族のふれあいに育んだ”絆”は、希望を明日へ....私の生きる糧と心に潜めました。