久しぶりで震災後にできた堤防の散策路を歩いてみました。
正面の鉄骨の建物が防災庁舎
我が家があったところは...木の側の白いボックスの辺りが倉庫と駐車場かな、自宅兼店舗はこの堤防の下です。
なんでこうなったのか、今でも信じられないのです。
下の画像は、TVからの映像をコピーした震災前の写真です。正面の大きい建物が町役場で、右隣の白い四角い建物が...防災庁舎、
左隣、白い看板が店舗兼自宅の我が家です。
穏やかな、いい町だったんです。
台風5号の進路からすると南三陸を直撃かと心配したが、進路がそれてホッとしたのに...今度は台風7号が気がかり、
何んか、落ち着かないお盆になってしまいそうです。台風7号、偏西風に乗って太平洋の彼方に消え去ってほしいものです。
この写真の桜満開の光景に出会ってから13年になりました。
時の流れにはホンと驚きを感じざるをえません、
そして私もずいぶん年を重ねてしまいました。
年を取るたび思い出すことがあります。
遠くに過ぎ去った...少年時代.
時間を見つけては野球に明け暮れました
木の棒をバットにしての素朴な野球ですが
美しい夕日の中で夢中になってボールを
追いかけたものです。
まあ、思い出はたくさんありますが
青空に残された私の心は...いつも春爛漫なんですよ。
※写真データ:2011/4.27撮影(南三陸町志津川 町営大森住宅付近)
信じられないぐらい時の経つのが早いものです。
もう13年も経ってしまったんだと思うものの、頭の中は、いまだに3月11日午後3時14分最初の津波が到達した時です。
一瞬にして多くの命が奪われ、明るくて楽しい街が消えた日で忘れることができません。
...その瞬間を手が震え、体が震えながらカメラに収めました。
ファインダーを覗く頭のなかは、この瞬間今。...誰かが亡くなっていく、このまま撮り続けていいのか自問自答しながら、
シャッターを切りました。襲ってくる黒い波は、不安で死を身近に感じた瞬間でもあり私にとって一生忘れられない日です。
写真
1枚目:震災以前の南三陸町・志津川中学校から撮影
2.3枚目:志津川小学校校庭から撮影
縁日...久しぶりに聞く言葉で懐かしくうれしくなります。
子供のころ...自宅(八幡町)の隣が町役場でその隣に八幡神社がありました。まあ...境内は勉強の合間の遊び場でした(笑)
春や秋の祭りの縁日には境内に舞台が作られ夕方になると...裸電球で浮かび上がる「お神楽の舞」がとても幻想的で今でも夢を見ます。
いちばんウキウキしたことはやっぱり出店、かき氷やワタあめ焼きそば、ヨーヨー金魚すくいに的あて、それに八幡町打囃子に獅子舞。
とにかくあの頃はすごく楽しかっし友達との絆も深まった気がする。
遊び場だった八幡神社も昭和40年代半ばころ現在の場所(上の山)に移転しました、
神社本殿を解体せず、コロなどの上に乗せ、大勢の人が引いて数百メートル移動した様子を見ていて...寂しくて虚しくて今でも記憶に残っています。
まあ遠い昔のことだったのですが、あの頃の縁日が蘇ります。
南三陸町 震災復興祈念公園 祈りの丘
「上りきる」となると達成感や満足感がカラダ中にみなぎるし、自分のペースで進むことができる、
「上り詰める」となると何か息が苦しく追われるようで苦痛...でも「上り詰める」とあの👆「大空」がすべて自分のものになる。
まあ歳を重ね過ぎた自分ですが まだまだ「夢の途中」なんですよ、
道の駅「さんさん南三陸」
歳を重ねるごとに...1年って短くて時間経つの早いですよね、同じように”意欲も体力も欲望”だって...少しづつ衰えます。
でも...
「見上げれば青空」
防災対策庁舎 (南三陸町震災復興祈念公園 ) 2023/10/01 撮影
宮城商店 2011/05/13 撮影(写真は私の同級生。愛車.軽トラックに給油中)
南三陸町防災対策庁舎 2011/03/11 17:23
12年前の秋祭りでした。
津波で家を流され仮設暮らしの私たち家族が、妻の実家に招かれ...楽しさと、嬉しさと、心癒された思い出の写真です。
7月も残すところ...あと一時間、7月一回きりの投稿ギリギリ間に合うかな、
何しろしパソコンの中から写真選択するって大変な作業。
撮った写真 普段整理してればいいのですが、仕事を終えビールをグイッと...喉を通る頃には
...暑さのせいなのか年なのか、とにかく今夜だけは老体に鞭を打ちつつ(笑)
花の写真はここ一か月以内に撮ったものと震災時の気仙沼線の鉄道線路。写真羅列します。
JR鉄道・気仙沼線は震災後廃線になりました(横山~志津川~気仙沼) 悔しさと寂しさが...心に残ります。