今では有名になってしまった南三陸 防災庁舎の隣が我が家でした。
震災前の私は、目の前の八幡川の川の...季節の移り変わりを日記風に投稿することが自分のブログの始まりでした。
しかし今日の事態は.....我が家の.跡地に行くこともできないのです、
まあ、地盤沈下に大潮に大雨の出水と虚しい悲しい模様なのです。
先日のニュースで、この防災庁舎が取り壊されるとのことです、、
亡くなった遺族の皆さんの意向を配慮してのことだそうです。
あの忌まわし出来事は脳裏と現実からすべてを排除したいのは当りまえの心理です。
しかし5年後10後~永久的に後世に伝えることも大切なことです。
私自身(小学生)51年前にもチリ地震津波で被災しています。
当時津波経験した方々は被害の体験談を言い伝えてきました、
そして伝承と毎年の恒例の訓練行事で推移してきましたが今回は未曽有のことでした。
1000年に一度とも云われる大震災を風化させず。
被災した形あるものをモニュメントとして残し津波経験等を言い伝え、世界の皆さんに発信し続けることが
南三陸の大切な役目と思います。(例えば広島の原爆ドームのような)
南三陸 入谷 岩沢の道端で撮りました
上の写真は南三陸 袖浜海岸道路です。
この付近はサンオーレ袖浜の海水浴場もあり民宿街で活気づいていましたが全てが流されました。
上の写真は私の”牛小屋”修理作業場兼店舗です。
この地は南三陸で唯一津波を免れた入谷地区です。
山懐に育まれ長閑でゆったりとした山並みを仰ぎながら....忙しく仕事しています(^^^)
南三陸 入谷 童子下
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未曽有の三陸沖地震津波から半年が過ぎました。
しかし月日が経とうとあの忌まわしさは昨日の如くです。
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その時は志津川小学校の校庭に逃げました。
地震の揺れはいまだかってない異常な....必ず来ると確信する津波の高さを予測しつつ。
高齢の両親と共に”即”適切な行動をしたことは、常日頃の津波への心構えだと思っています。
そして...避難する行動に「運」「不運」が大きく左右した気がします。
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八幡川沿いにある我が家...流され破壊される寸前にファインダーを斜め左下へずらしました。
我が家と南三陸志津川の町が消滅する様子は、いまでも脳裏に焼き付いています。
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《我が家》
3枚目の写真中央よりちょっと左に防災用広報柱、その後方が役場本庁舎です。
我が家は役場の本庁舎正面2F付近前まで流れ....(四角張った店舗白い部分ににかすかに赤文字の看板が)
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何度となく同じ写真をブログアップしますがお許しください。
二度と戻らない風景に.....これからも、
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南三陸志津川 八幡川