南三陸 海 山 川!

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    新しいスタートに思いを乗せて、

2018-03-26 01:19:12 | 日記

 

 

 

                          

 

        3月も今週いっぱいで”おわりですね” なんか寂しいようなきもするし...、
        応急仮設住宅に住んでる方・みなし仮設の人も月末までにはほとんどの方が退去します。
        まあそれだけま南三陸は生活基盤が進んだことになります。

        震災から7年、歳月の流れは遅かったか、それとも早かったのかは 人それぞれですが。
        住宅団地や復興住宅も出来、役場庁舎・総合病院も完成し 公共施設等も順調に推移している状況です。

        しかし町の形が出来上がっても これからが自治会や町内会と”地域コミュニティつくり”が大事な課題となります、
        自分としても...震災前の町内会の楽しい思い出が頭から離れません...しかしコミュニケーションは時間がかかる大切なことです。
        自転車屋の自分としては仕事を通して”地域に寄り添える”存在でありたいと思っています。

 



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別れ際

2018-03-19 23:25:49 | 日記

3月半ばとなると送別会なるものが。...まあこんなことって...。無くたって...いいことだと思う...自分です。

少し顔が火照っり(笑)半分酔いがまわった宴席、握手やハグ (hug)...思いもよらない会話に盛り上がってしまいました。
南三陸の4年間の勤務に別れを告げ...新天地へと希望に燃える若者が...私の高校の後輩(石巻工業高校)と知ったとき!
別れ際って...大切なことなんだ!南三陸の復興を祈り安全安心に努め、”ガンバってくれた彼に”...すごく感激した...2時間前でした。





 

 

 

 

                                    

 

 

 

 

 

 

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水尻橋と河口

2018-03-12 00:24:51 | 日記

 

 

      あの日から7年が過ぎました。アッという間の月日であり...年月でした。
      これまで頑張れたことは、ご支援を頂いた すべての皆様に...本当に感謝申し上げます。

 

                          

 

当時は道路などライフライン(命綱)は完璧に寸断され なす術がなく どうする事もできませんでした。

 

                         

 

隣町と繋ぐ唯一の橋、「水尻橋」...早期復旧に すごく安堵したものです。(2011/3.20撮影)

                                             

                         

 

 国道45号線はまさに生命線です、当時、自衛隊の方々や全国から応援に駆けつけた皆さんの懸命な努力が...”明日への希望となりました”

 

 

                        

 

 

 

下の写真は3月末.開通予定の国道45号線「水尻橋」です(2018/1月末撮影)
ますます、復興の加速に期待がもてる現在です。                    

 

 

                          

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震災・復興から7年です。

2018-03-10 00:35:36 | 日記

  現在の南三陸志津川の市街地復興状況は、汐見橋・水尻橋が完成し間もなく国道45号線が約8~10㍍嵩上して市街地の開通となります。

 写真中央の白い建物は結婚式場「高野会館」、震災当時 この会館3階ホールで高齢者300人以上が集う「南三陸町高齢者芸能発表会」
 開かれていました。津波は4階まで達しましたが全員屋上に避難し無事でした。

 

        

 

「高野会館」は”語り部バス””を運行する町内の観光ホテルグループ企業が所有し震災遺構として残したい考えですが 
 町は費用等など課題が多く震災遺構として維持管理しないとのことです。

 写真下、八幡川の川沿いの鉄骨の建物が防災対策庁舎、震災時50数名が屋上に避難しましたが、
 津波は屋上2㍍まで押し寄せ...生還したのは10名でした。

                         

 

 防災対策庁舎は現在、2031年まで宮城県が管理・保存しています。防災庁舎周辺は今後震災復興記念公園として生まれ変わります。

 

 

                         

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こらえきれずに泣けた朝、でも。

2018-03-04 22:02:18 | 日記

 

東日本大震災からもうすぐ7年たちますよネ、ワタシの年齢だって...あの年から+7才、
熟年?の後半戦...どんな自分であるかが、

 

                      

 

そりゃ!自分の心中は...いつも”美しい南三陸””でしかありません。

 

 

                         

 

 

まあ人生を、...幾度なく(チリ地震津波・昭和35年)経験した自分ではありますが、上の写真のような悲惨さは.....
悲しくて虚しい現実、..、あのころの”虚無感”からの逸脱は..仕事でした。

震災直後はガレキ(瓦礫)で道路は不能、車は流され交通手段はナシ、...でそんな時活躍したのは自転車と小型バイクでした。



                         

 

 

7年が過ぎ...私も生活に落ち着きが戻りました。やっぱり被災地を応援して頂いた...すべての皆様に感謝申し上げます。
被災地はまだまだ復興の途中ではありますが...その地域ごとに...しっかりと復興が進んでいますよ!


                          

                                                 南三陸 志津川

 


                              

 

 

                         

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