南三陸八幡川の釣り風景、震災前の南三陸町役場前(現在:防災庁舎震災遺構)
4枚の写真を写真みるにつけ、役場の隣だった自転車屋の自分としては... ⇈
仕事の合間に覗く釣り模様が今では懐かしく思い出されます。 [翔くん...ハゼ釣り名人なのです」
※4枚の写真は震災前に撮ったものです、現在は津波により街並みの風景は消滅しています。
南三陸八幡川の釣り風景、震災前の南三陸町役場前(現在:防災庁舎震災遺構)
4枚の写真を写真みるにつけ、役場の隣だった自転車屋の自分としては... ⇈
仕事の合間に覗く釣り模様が今では懐かしく思い出されます。 [翔くん...ハゼ釣り名人なのです」
※4枚の写真は震災前に撮ったものです、現在は津波により街並みの風景は消滅しています。
この日は蒸し暑く お日様はじりじりと 老体には応える 昼下がりでした。
何の花か、Googleレンズで調べてみると「ニラニンジン」...だそうです。
「ワイルドキャロット」「レースフラワー」「アン女王のレース」とも言われるそうです。
☝レース編みが好きだったアン女王(イギリス)に由来するとか、
とにかく北上川右岸は地形の関係だと思いますが、この付近も含めて3㎞ほど...行きかう車もなく人影もありませんでした(笑)
自分としては...こんなにまでも素晴らしい自然を独り占めしてイイのかと...喜ばずにはいられませんでした。
登米市 北上川右岸35km付近
たまにはこんな風景もいいものです。土手に腰を下ろし沈みかけの夕日に ひとり茜色に染まる。
北上川河口から4㌔地点、ヨシ原(葦)
石巻市 北上町
北上川左岸河口から約10キロメートルにわたって葦が群生しています。 見渡す景色は ホントに美しく日本の風景そのものです。
写真: 正面の橋は、新北上大橋
川の向こう岸左端の小さく見える建物は、震災遺構・大川小学校
自宅(南三陸町)から車で約40分ほど道のりです。国道398号線...素晴らしい景観の海岸線を走ります。
八幡川河口から約6㎞ほど遡るこの場所に「上流端」の標柱。
推測ですが宮城県が管理する流域の最上流地点を言うのかな、まだまだ上流は続くのですが...
ところで
この標柱の表記してある住所:志津川町字鏡石...「すごく気になります」
志津川町:町村合併前の町名で現在は「南三陸町」ですので合併以前に建てられたものですね。
字鏡石 :標柱を建てた当時としては「志津川町入谷字鏡石」が「正しいのでは」と思うのです。
「上流端」、この先の源流までまだまだ続く上流です。
南三陸町入谷字鏡石
※ 南三陸町は、平成17年10月1日に志津川町と歌津町が合併して18年経ちます...時の流れって「早いものですね」
私も震災後「ご縁があり」入谷字鏡石に店舗を構えて12年になります。時々消失した志津川の街並みを思い出します。
震災前の自宅2階から撮った在りし日の八幡川の風景写真です。
下の3枚は震災直後当時の写真で1枚目の写真とほぼ同じ場所から撮ったと思っています。
下の写真、対岸のむき出しの鉄骨建屋は南三陸商工会会館です。確か新築してから数年しか経ってなかったかも、悲しい現実でした。
現在はこの周辺に震災伝承館併設の「道の駅」が建設され2022年度開設を目指し進められています。
当時この瓦礫の山を目のあたりにして...ガレキ撤去だけで10年かかるのかなって思ったものでした。
あの日、経験したことのない物凄い地鳴りと揺れに必死に縋りつくお店の前電柱。揺れが収まらないまま耳にした「6メートルの大津波が来ます」「急いで高台に避難して下さい」
町の防災広報無線が必死の呼びかけに町中が騒然になり異様な状態になったことは今でも脳裏に焼き付いています。
私の”住まいは町役場の隣で目の前が八幡川、生まれ育った”海、山、川” こりゃ「倍だな!(12メートル)」
自転車屋の自分としては、店先の預かり自転車とバイク修理車だけは店の中に入れて避難しようと1台目のバイクのハンドルに手をかけた時、まてよ!「10メートル以上は来る」
絶対に来る津波だから どこに置こうが 津波が来たら関係ない、「逃げなくちゃ!」
とっさにチリ地震津波の(1960年)思いが甦った。「津波は一番最初に八幡川を駆け上り襲う事を」
あの日、あの時、生きるか死ぬかの分かれ目の判断は体験とか経験とか訓練とか言い伝えとかが私の体のどこかに残っていたから...そして素直に自分が反応したから生き延びられた。
自分としては津波で町が消えて逝く様子の一部始終を目の当たりにしているので...そしてカメラに収めた当時の状況も残ってるし
私の気持ちの折々にブログアップします、とにかく私の心の風化が進行しないためにも。
南三陸 志津川 八幡川
あの日から10年目を向かえようとするこの頃、あれこれ思いを募らせる日が多くなるような気がして...あの時の修羅場が甦ります、
でも一般的には時が経つにつれて記憶から薄れていくのが実際なのかな、自分は被災体験をしているから、ふと振り向くと...いつも2011/3.11が現実なんです。
とにかく風化しないように写真や映像で伝え続けることですね。日本の周辺は地震の多発地帯、いつ災害が起きるか分かりません そのためにも、
良く知り、良く学び、その心構えの対策は大切ですよね。
上の写真は2014/06.02撮影、八幡川左岸 震災2年経過した頃の写真で五日町の川沿です。
現在は10数m嵩上げした場所に「南三陸さんさん商店街」が飲食店やお土産屋約30店舗が軒を連ねています。
南三陸町 八幡川左岸2010・12/23撮影、この写真(2枚目)はもしかすると友達から提供された写真かも、自分としては2010年頃の写真データは全て流失しています。
川の向う側が貴重な映り込み写真です。正面の壁面が白い建物は「中国料理・常盤」そして向かって右2件目の白くて四角く読めないけど「HONDA」赤文字看板が我が家。
その隣が南三陸町役場でベージュ色の三角屋根が細長く見えます、そしてその屋根の後ろのほうにかすかにアンテナが見えますその場所が...震災後に有名になった防災庁舎です。
また正面の中橋(なかばし)はここからだとよく分かりませんが基本的には木造の橋です、現在4期目の佐藤仁町長も毎朝この橋を歩いて登庁されていたことを思いだします。
そして私のお店の前でよく朝の挨拶を交わしたものでした今となれば清々しい光景だと思っています。
八幡川 2021/01.24撮影 (3,5,6枚目)
未曾有の津波で町が消滅してこの町がどんなことになるのかと当時を思い出します。
3,4,5,6,の4枚の写真は震災10年目の現在の写真です。
2018/06・17撮影
新しい町ができて安堵しています。
八幡川も安全安心な川と生まれ変わりました。上の写真右手は全国に知れ渡った「南三陸さんさん商店街」です。
そして下の写真は震災で有名になった「防災庁舎」現在は震災遺構として慰霊の場として保存されています。
2週間前の南三陸入大船渓流沿いです、
最初に目に飛び込んだのはこの実、いったいなんなんでしょうネ。
PC検索:秋の赤い実で調べたんですが...当てはまるのが見つからズでした。
ここ正鵠の森渓流沿いをポタリングするのですが、誰一人と出会わず、車3台ほですれ違っただけでした。
とにかく渓流沿いの川に下りてみました。
自分で思うのですが,あまり一般の人はこの川に入り込まない様な気がします、
なんとなく忘れ去られた....良い所って感じ。
とにかく、この渓流は私が独り占めだったのでした。
まあ何するわけでもないのですが、ケツが濡れないような石に腰を下ろし、
少し深呼吸をしました。
渓流の音(せせらぎ)が心地よく、日頃の雑念も川面に吸収されて行きましたよ(笑)
気分は、 少年時代の好奇心...ワクワクした、しばしの時間でした。
上の写真の木々は、複雑なしがらみを背に”生きているのだと感じます、
木の場合は一度絡みあったら...永遠ですよね。その点人間は柔軟性に富んでますよね。
上の...紅葉は 終盤の自己表現...終焉は風に吹かれて 「the end」
でも彼らは、翌年の春の季節になると、またまた青々と芽吹きする習性なのです。
人間は:私の年齢にもなると、体形と体力と精神力に少しづつ衰えを感じつつ.
ひたすら、穏やかさと健康を考える日常へと.....、
この日(10/12)はMTBのペダルを踏み込むほどに 力強さに勇気と活力と気力が、
うっすらと額に滲む汗の粒ほどに...楽しい時間を過ごしました。
南三陸 志津川入大船沢