おふくろのさんの 一周忌でした。
お店は休業です、 車で2時間かけての 妻の実家、
きょうは横浜で仕事してる一番めと^^、二番目家族とのささやかな交流の機会でもあり、
亡くなった おばぁ~ちゃんの ”粋な計らい”の場でもありました。(^^)
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南三陸というと皆さんは海ってイメージがつよいのですが、本来は一方が海で、三方が山で囲われた地域なのです。ですから 海が輝くのです。
海があるから山が映えるのです。私が住んでる地域はそんなに高い山ではなく、300~400㍍ぐらいの里山です、生活感があって、人とのふれ合いのある、心あたたまる山です。
そんな山の中.....山奥。 ”音楽 ライブ”がありました 小室等、 李政美(イ.ジョンミ)、
佐久間順平 ジョイントコンサート30人位が入れるライブホールに70人の超満員の大盛況でした。
コンサートを企画した杉田さんはむかしカメラマンで南三陸地方の働く人をテーマに何度もこの地域に訪れているうちに、 ”南三陸の海と山と川”の魅力に撮りつかれ 私たちの町に住むようになりました、現在は養豚業のかたわら ファームステージ”風の宿”を運営 そのいっかくにライブホールがあります。 とにかく山奥です。 この山里が熱く燃えたのです、3人のミュージシャンには共通点がありました、ことし4月に急逝した「高田 渡」をすごく愛いしていて、素晴らしい仲間だったことを感じとったとき、どうしても涙がとまりませんでした。、追悼コンサートのようでした、高田渡の代表曲「自転車にのって!」3人で唄った曲が今でも心に残っています.....私、自転車屋さんですので。 と言うわけで、7月9日山が輝いた夜でした。 (写真:クイックすると拡大します)私が父と始めて出会ったのは終戦後 3年過ぎた とても暑い日でした。あぶら蝉が 鼓膜の奥底まで劈(つんざ)く!ミィ~ン.ミィ~ンと泣きさけ叫ぶ。汗がとめどなく したたり落ち、容赦なく照りつける日差し!そんななか うれしかったのは南三陸の澄みきった海からの藍色の風! うれしそうに通り過ぎていったには違いありません。「私の生誕」。 8月10日のことでした。それ以来の付き合いになります。
私がもの心ついたころから何度も聞かされたことがありました。父の傍らで はらはら、どきどき、 ”臆病”になった自分が、いつも、そこにいました。それは、それは 父、定雄!青春の 恐ろしく、悲しく、虚しい、人生でいちばん、心に深く刻まれた、出来事でした。
【修羅の海】より 東の方向だろうか、空がかすかに明るくなってきた感じがする。眼の前の海上はまだ薄暗くしずかに眠っている。私は先ほどから甲板に出て船の左舷にもたれぼんやり、このあん暗闘の海を眺めていた波の凪いだ静かな中でコトコトと船のエンジンと思われる音が私の腕を通して体に伝わってくる…………………………. ハット 吾にかえった。私たちは今、重大任務を帯びて敵地へ向かって走っている輸送船上である。昨夜といってもほんの5,6時間前のことでした。夕食時に僅かな酒が出た。酔いが廻るほどの量でもないのだが、何人かの戦友が遅くまで食器を叩いたり、調子はずれの唄や,お喋り、ワイワイと異常なはしゃぎようである。私はたまりかねて注意をした。普通では許されるべき兵の行動ではないのだ!……… この騒ぎが戦友達のこの世の最後の別れの「宴」になろうとは本人達も知る由もなかった。その半日後 敵の攻撃を受け何十人かなの戦友がなくなったのです。」
父がガダルカナラル島に向かう輸送船上での出来事。爆撃を受け、多数の仲間を失いました。海に放り出され何十時間と、生と死を彷徨いました。昭和17年11月14日 衛生上等兵 佐藤定雄25歳。戦争が青春だった頃の体験です。 このことを胸に秘めながら、歩んできた父の人生です。生死に一生をえた、定雄さんいまだに元気です。 彼のこころの青春を支えるのは、”家族が元気!”が いち番。ささやかな会話、鼻歌をうたえる雰囲気、グィ~っと背伸びしてみょおーッか!って心意気。私は”そういう家族”で存在し続けたいのです。
きょうは、七夕様の日。 ”定雄さん”7月7日 誕生日....88歳 米寿。
ねらいは!.............金寿?
【修羅】戦乱や闘争で悲惨をきわめている場所。しゅらじょう。 【修羅の海】..佐藤定雄 著 2年まえ父、定雄が日記に書き綴づったものを編集しました。私の叔父 古澤孝夫が制作、製本、監修、手作りのささやかな短編小説にしました。いい作品に仕上がりました、発行部数12冊、父の現存するささやかな妹弟と、まだ生きているとされる戦友に送りました。我が家には、原稿のみです。