上の写真です、防災庁舎の前まで役場が流され、役場の前まで私の自宅が(白い外壁に赤い文字が微かに)流され、
どうしようもない現実に...自然の空しさ、無常さを現実として、目の前で知らされました。
南三陸町 志津川小学校 校庭から
上の写真です、防災庁舎の前まで役場が流され、役場の前まで私の自宅が(白い外壁に赤い文字が微かに)流され、
どうしようもない現実に...自然の空しさ、無常さを現実として、目の前で知らされました。
南三陸町 志津川小学校 校庭から
2011年3月10日、東日本大震災発生一日前の私のブログです。
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私の友人の愛犬ポニーちゃんが 2011年3月8日に亡くなりました。
3月10日に町営火葬場にてペット火葬としてポニーちゃんを見送りしました。
火葬に立ち会った3人、喪主の友人と節ちゃんと私と...後日ポニーちゃんのお別れ会やろうねって、...約束。
その約束が...いまだに約束のままです。
13年経った今でも、
節ちゃんが津波で流されてから13年がたちました。
2011年3月9日、東日本大震災発生の2日前の私のブログです。
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小学生のころチリ地震津波を経験しています、八幡川を溯ってきた津波で自宅1階が被災しました。
津波経験があるので毎年5月24日、町の津波避難訓練には欠かさず家族で参加していました。
「地震があったら津波の用心」
「高台に逃げる」が家族の言い聞かせで...志津川小学校の高台と決めていました。
高齢の父と母は(当時)寝るときはいつも懐中電灯、母は防災頭巾を枕元に用意していたことを思い出します。
東日本大震災の時、家族が無事だったのは日ごろの防災意識が役立ったと思っています。
サイレンが鳴り響くと理由が分からなくても危険が迫ってくることは確かだ、即座に身の安全ため行動に努める、
まず情報収集。町役場に登録している「緊急・防災情報のメール配信サービスに登録」していることがすごく役に立つ!
今の世の中はいつどこで災害が起こっても不思議ではない、災害は突然やってくる。
東日本大震災でつくづく思い知らされた、備えることは大切だ、自然って計り知れない恐ろしさがある。
ひとつ年を重ねると...一つだけ戻れて自由になれる自分が存在する。
10年まえの4月 行き先の無いままのプラットフォームで....(鳴子中山平温泉駅}
当時の状況が「よく飲み込めてないまま」避難先としてたどり着いた家族4人...「鳴子中山平温泉」でした。
東日本大震災で全て失い...どうしようもない迷いと戸惑いに心が折れた時。
このプラットフォームが 私の「心を整理」してくれた大切な場所なんです...10年目で出会えた素敵な風景です。(5月4日撮影)
3枚目の写真は 2011/4.18 避難先「鳴子中山平温泉:仙庄館」から
先日の台風19号の豪雨で主要道路が寸断されたり河川の堤防の決壊より被災され大変な思いをされた皆様にはお見舞い申し上げます。
私たち南三陸でも河川の氾濫で床上浸水、ガケ崩れ、道路等で大きな被害が出ました、今でも復旧作業が続いている地域があります。
東日本震災後・津波に強い街づくり...だ、と思っていました。
でも災害って想定外の方法で襲ってく来る...つくづく感じました。 海だけじゃない!山も、川も、そして空だって!
自分の身を守るのは自分しかないって...しっかりと自覚した震災の頃でしたが、改めて身に危険を感じた台風19号の豪雨でした。
先の震災で生き延びた証を伝える...大事なこと、大切な事。 少しではありますが役に立てる自分でありたいと思っています。
南三陸・入谷童子下仮設1期談話室。
この日は仮設のお別れ会の日です。16世帯の小さな仮設住宅の仲間でした。
言葉とか意見とか気持ちが、すごく通じ合った.....仮設暮らしの6年間でした。
人生って、不可思議なものです!
知らないもの同志がある日突然.....こころが通じ合う事。
仲間: 心を合わせて何かをいっしょにする間柄、...これからも”ズッとズ~っと保てる間柄^^
復興から発展期とマスメディアは大きく取り上げる、...災害公営団地ができ、住宅再建が進み、新しい商店街が誕生!...と、
状況と発展が進めば進むほど、自分の決断が.....迫ってきた今週なのです(笑)
もうチョッと...10年も若けりゃ理屈なしで”店舗兼住宅”を再建できた筈ですが(まあ...年なんですね。)
国の金融機関は、「意欲&精神力・低金利貸付..フラット90歳」.....震災優遇・特例措置を新設していただければ....”町は蘇ります”
南三陸 志津川 「海 山 川」