私がこの学校に赴任してきたのは戦後間もない晩秋のころでした。
別に教員の資格があったわけじゃなかったのですが
たまたま叔父から頼まれて嫌々ながら教壇に立ったのがことの始まりでした
実は帝國大学を卒業した自分でしたが勉強のし過ぎだったのか….
卒業後の数年は何をやっても手に付かない状況だったのでした、
後になって分かったのですが.....このことは後日お話したいと思っています
そんな履歴だった私に白羽の矢が立った当時は、当然だったのかもしれませんでした。
まさか、登米純情小学校に転勤命令が出たのには.....“晴天の霹靂”でした。
南三陸の地から登米までの道程をこなすのは当時では大変な事でした。
現在はたったの30分ですがあの時代は一日ががりでした。
たまたま我が家の近くで馬車引きを“正業”としていた“直ちゃん”に助けられました。
荷車に生活用品を積んで町境の横山峠に指しかかった頃にはポロポロと、
涙交じりの汗を拭う自分を思い出しました。
住めば都と散々言われ送り出されました....
浜育ちの自分ですが、荒々しい言葉尻に馴染まなかったので、この地の人々の言葉の優しさに嬉しさを感じたものでした。
私の受け持ちは4年2組 8名の子供たちでした。
(男子)サダオ、タカオ、タケオ、トキオ、ヨシオ...(女子) ヨシコ、マサコ、サダコ
何かと厳しい戦後の事でしたがこの地方は農業と地域に根ざした産業がしっかりしていたので
子供達の素直で明るい表情にすごく励まされました。
放課後みんなで、この廊下の手すりにしがみつきながら中庭を見下ろして歌ったものです。
hiderinn先生!”春のうらら...”って どんな意味なんですか...って。
それはネ、作曲家 滝廉太郎の”花”って曲でむかしhiderinn先生が隅田川のほとりで恋をした様子を...
”春のウララの隅田川”と、作曲した有名な曲だよ....
...と子供達に心許し教えるほどになった ものでした。
すっかり気分は登米に成りきったワタシです。
教室から垣間見る季節の様、
しかしながら国語の朗読をさせながら部屋の片隅で思う南三陸、
子供達には力強さのある態度を示しているつもりですが、どうしても気持ちに厳しさが足りないのか、
それとも先生像に沿わないのか、遠くから見ると”肩下がり” の自分です。
まぁ、気の弱い自分ですので女性の方の前ではいつもこんな風だとつくづこ思っています、
でも子供達の前では...そんなことないのですよ。
仕事の終わった後は学校の裏の方なんです、
少し路地に入り込んだところなんですよ、いっぱい呑み屋の”秀ちゃん”で グィ~って...ひとりで!
先日、けいこ先生誘ったんですが...硬くて。
住んでみて分かったことなんですが、その地域に腰を落ち着くと地域のみんなの気持ちが分かる、
みんなも自分を理解してくれる、
みんなが一つになれる中心点が学校なのかもしれませんね、
おことわり,,,,上記はすべて仮想の中での文章です。
”みやぎの明治村”登米(とよま)町にきのう行ってきました、南三陸からは車で30分ほどです。
ブログ投稿した写真は旧登米高等尋常小学校校舎で国指定重要文化財(建物)です。
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