皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

忍の時鐘櫓跡

2018-09-03 21:52:02 | 行田史跡物語

 九月に入り、幾分暑さも和らぎましたが台風も近づく中昼間は蒸し暑さを感じます。長かった夏休みも終わり、今日から子供たちも学校へ通うようになり普段の生活が戻りました。部活の練習に行くと言って学校まで送り届けた途中、市役所裏の忍の時鐘櫓跡に目が留まります。
 現在忍城の時鐘は市の指定文化財となり、郷土博物館に展示されていますが、元あった場所に初めて気づきます。鐘自体は博物館の常設展示室の脇で見ることができます。松平忠雅が山形より備後福山(広島県)を経て桑名へと入封後、安住の記念として享保二年(1717)に作られたとされていますが、宝暦の大火で割れてしまい、子の松平忠刻が宝暦十四年(1764)に再鋳したとされます。
 
松平氏の祖忠明は幼少期に家康の養子となり、その家柄は御三家に準じたものとされています。また松平忠明の実母は家康の嫡女亀姫で家康の孫にもあたるのです。
 文政六年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴い忍城へ移されたその鐘は、郷土史家清水雪翁の著書「北武八志」に「忍城にありて日々時を報する者即ち是なり」と記されています。
桑名から移される際は桑名港から海路東京湾へ、江戸からは利根川を上って酒巻に着いたとされます。慶応四年には維新の急変の一報を「藩士集合せよ」と乱打されました。明治6年新政府は東京に一番近い親藩との理由から忍城の建物一切の取り壊しを命じ、櫓は無くなりましたが鐘は東照宮、進修官小学校、忍高女学校と場所を移しながら行田の町に時を知らせる鐘として打ち鳴らされました。
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忍城三の丸跡

2018-08-20 21:48:26 | 行田史跡物語

忍城三の丸城代家老屋敷跡。忍中学校の南西、野球のバックネット裏にあり、中学の時フェンスを越えるとこの辺りまでボールを探しに来ていた。
藩主と居宅の二の丸とほぼ同じ大きさであったといい、城代家老の権力の大きさを物語っているという。
中学校の正門と反対側にあり、車通りも少ないところで気づかず通り過ぎようとしていた...
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長野口御門跡

2018-06-22 21:55:07 | 行田史跡物語

長野口御門跡は城下町行田の東北隅にあたり、行田船着場として出入りの激しい要所であった。忍川と六ツ門から本町北を流れる川とが合流し、沼をなしたという。その沼に二つの島があり、西の島にお堂があって小沼堂といい、東にも島があり、小沼橋がかかり長野桜町へ向かった。
橋から北は一面葦に覆われ、沼の上を秩父線が走ってゆくのは不思議な感じであったという。
 天正十八年(1590)忍城水攻めの失敗後、六月二十七日長野口から入った石田三成勢は大手口まで攻め入ったが、成田氏長の娘、甲斐姫の奮戦にて士気が上がった成田勢は石田勢を退けたという。
 但しこうした成田記の記述は後世の加筆である可能性が高く、史実としてとらえるには注意が必要であることを市の教育委員会は史跡の解説として記している。
いづれにしてもここがかつての船着場として栄え、新郷川俣関所(羽生)から館林城へと至る重要な街道の出入り口であった。

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忍城 太鼓門跡

2018-06-14 21:33:21 | 行田史跡物語
忍城十五門のうち、一番奥藩主居住の二の丸の入り口にあった。両面が太鼓の両面に張られた皮のようにどちらが正面かわからないので、太鼓門といった説と、櫓上に太鼓を置いて急を告げたとする説がある。
現在忍中学校の正門前にあり、中学生の敷地内は二の丸の平屋が十数軒並んでいたとされている。石碑が建てられたのは、昭和54年。中学三年間毎日この前を歩きながら通っていたが、当時は気にとめることもなかった。
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忍城三重櫓跡

2018-05-17 20:04:02 | 行田史跡物語

市役所前の通りを南に走り、信号を過ぎると美しく開けた水城公園に出る。昨年来足袋蔵のまち行田として日本遺産に認定され、その歴史的建築物(大正期)の保存活用事業として「旧忍町信用金庫」が公園の東側に移設され、注目を集めている。
 一方公園北側入り口にある忍城三重櫓史跡は、中央小学校の東口の前にあり、人通りも少ない。

説明によれば明治6年忍城取り壊しの際、上棟札に元禄十三年(1700年)とあったので藩主阿部正能の時代であり、老中を兼ねていたことから当時江戸城天守消失の時代にあって、その名をはばかり、三重櫓と名付けている。

明暦三年(1657年)の振袖火事と呼ばれる大火で江戸城天守郭消失しており、幕府に遠慮して築城できなかったと伝わる。但し阿部忠秋が江戸時代最多三十二年の老中を務め三代正武は二十三年を老中職を務め、合わせて忍城も改築している。天守閣という名はつけなかったが、その居城にふさわしい威容を誇っていたという。明治六年の忍城取り壊しにより、今はその当時姿を見ることはできない。
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