皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

お年賀に和三盆

2019-01-15 19:54:09 | 食べることは生きること

菓子文化を見つめる埼玉銘菓十万石。お正月の御年賀を買った際、新春和三盆糖の干支祝菓をつけてくれる。

 和三盆といえば希少価値のある高級砂糖の代名詞だ。主に香川県や徳島県など四国東部で伝統的に生産される砂糖の一種。黒砂糖をまろやかにした風味を持ち細やかな粒子と口どけの良さが特徴という。十万石の品書きによれば、今から二百年前に讃岐国大川郡港村の向山周慶という人が、苦心の末酒絞りの方法を応用して製造に成功した純日本産の砂糖だという。「盆の上で砂糖を三度研ぐ」という独特の製法からこの名がついたという。

 砂糖の原料となるサトウキビとテンサイトウ。日本の多くで使われているのはサトウキビを精製した上白糖。海外では精製度の高いグラニュー糖の方が多く使われている。上白に比べ結晶が大きくさらさらしていて、焦げにくいため焼き菓子に向いている。

 和三盆の原料となる四国の「竹糖」と呼ばれるサトウキビは、細黍(ほそきび)ともいい、収穫量も限られていて、精製の作業が複雑で寒冷期にしかしか作ることができないという。しかも白下糖から和三盆にする際4割ほど目減りしてしまうほどの歩留まりの悪さの上、原料の追加がきかないという。

 価値あるものほど贈答用に向いている。贈る人への思いが籠った高級和菓子が喜ばれるのだろう。

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行田兵衛尉館跡

2019-01-15 15:11:35 | 行田史跡物語

「行田」の地名は沼地を田としたことから≪田が業(な)ったので業田が転じて行田となる≫という説が有力で、中央小学校の南側を「なり田郭(くるわ)」と呼んでそこに門を立てたことから「成田門」となったという。

 「行田」という地名は千葉県船橋市にもあり、江戸時代行徳と田尻の間に新田を造り、それぞれの頭文字をとって「行田新田」と称したことから今でも船橋市行田の地名がの残っている。

藤原氏を祖先とする(諸説あり)成田氏の初代武蔵守忠基から数えて五代目助高は現在の熊谷市上之の地を本拠として従五位下を賜る。その長男六代助広は成田太郎を名乗り、四兄弟は別府次郎、奈良三郎、玉井四郎と現在の熊谷市東部にそれぞれ拠点をなしている。

 助広の三男成田助忠は五郎を名乗り、源義経に従って、一の谷合戦にて功をなし、現在の行田の地を賜ったという。(吾妻鏡)皿尾久伊豆神社縁起によれば文治四年(1188)成田五郎長景が平家追討の折、伊豆三嶋大社に戦勝祈願し、功を成したことから皿尾地に三嶋大社の御祭神「大山祇神」を勧請したと記されており、文献等に長景の記述はないが年代的にはこの助忠こそが成田五郎長景ではないかと考えられる。

 助忠の次男助任は行田兵衛尉と名乗り、行田の地に館を構えたとされている。

兵衛尉とは「兵衛府に属し、朝儀の儀仗をする役目」の意味で督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)といった役職のうちの小隊長格を表している。『吾妻鏡』には承久三年(1221)宇治川の合戦で行田兵衛尉が負傷したと記されている。尚助忠の長男道忠(行田兵衛尉の兄)は一の谷合戦で戦死している。

内行田近辺を行田氏館の内として地名が残っている。商工会館南の路地を行田氏の氏神久伊豆神社参道であるとして、久伊豆神社を長野の地に移したのは文明年中の十四代成田顕泰であったという。

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