皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

堰樋改築碑銘

2019-01-29 23:16:27 | 郷土散策

皿尾久伊豆神社大雷神社合殿境内には三基の石碑があり、うち二基は鳥居の脇に建っている。従軍乃碑と堰樋改築碑銘の二基。後者は特に皿尾の歴史を映す貴重な石碑だといえる。行田市教育委員会文化財保護課中島洋一先生にも一昨年地域の貴重な文化財として大切にするよう助言を頂いている。

 皿尾の地名の由来は、古く昔この地で陶器を製造した平坦な地という意味に由来する。同じ星宮地区の隣には関東最古の稲作集落遺跡小敷田中里遺跡があるように、古くから開けた場所であったという。皿尾村として忍領の中でも開けた農村部の歴史がある一方、忍川、忍沼(沼尻)と隣接し地下水位が高く排水に苦しむ一方、用水不足にも悩む土地であったという。

灌漑排水整備は近代まで続き、明治になって一度に煉瓦造りの堰が三基、樋菅一基が建造されている。『埼玉の神社』の記述にもあるように行田市は埼玉県でも最も多くの煉瓦水門が築かれ、その先鞭をつけたのがここ皿尾地区だという。

明治36年(1903)の建立で、碑文には皿尾村の用水路の水源は星宮村市西北の湧水であったこと、「外張堰」、「松原堰」、「堂前堰」と三基の煉瓦堰がいづれも同じ形式、寸法で建築されたこと、またその費用は県税の補助金のほかに、不足分は地元からの寄付金で賄ったここなどが記されている。

 高太寺裏に建つ「松原堰」


水源から引かれた水は外張堰から松原堰を通り、堂前堰を抜けて忍沼へ流れたという。

現在神社境内にはかつて東側(谷郷村)との村境に設置されていた「久保樋」と呼ばれる煉瓦管が残されている。いずれも日本煉瓦製造(深谷市)のもので、近代の灌漑設備需要に、近隣深谷市の煉瓦製造技術が大きく貢献したといわれている。

「田んぼの中の文明開化」と呼ばれ、県下でもいち早く農村部の開発が進められた土地としての歴史を物語っている。

 



 

 

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古の先行く人の跡見れば

2019-01-29 22:49:31 | いろはにほへと

古の先行く人の跡見れば

踏み行く道は 紅いに染む

 新渡戸稲造 (鍵山秀三郎 『寸土力耕』より)

明治の教育者、新渡戸稲造の感じていたことがこの句に込められているという。新渡戸家は主君に尽くし功がありながらも讒言を受けて悲運に見舞われ続けた。しかしながら稲造自身はまだ父祖父ほどの辛い目にあっておらず、国の前途を憂いて警世の言を上げたことで迫害を受けるのは、新渡戸家の宿命との思いだったという。

人に先駆けて事を成すのは難しい。よってその後を継いだものはその幸せを噛みしめつつ、後世に受け渡す責務を負う。今自分はそんなふうに解釈しています。

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