熊谷市の南東部に位置する太井地区は、現在でも農業区域が広がっている。地名の由来は昔この辺りには泉が多く、どこを掘っても井戸ができるほどで、村内に多くの井戸があったことによる。村の歴史は江戸初期まで遡り、当時は「太井四ケ村」と呼ばれる大きな村で、幕末になって太井、門井、棚田、新宿の四つに分村している。現在太井は熊谷市、門井、棚田は行田市、新宿は鴻巣市に属している。
多くの畑に囲まれるように鎮守の杜が生い茂り、いかにも村の鎮守としての佇まいを残している。
鳥居の脇には塞ノ神が祀られ、旅の無事や脚の健康を願い草鞋が奉納されている。
年を通じて祭事の当番を「用掛かり」と呼び、新井、新田、番場、北口の四廓から一名ずつ当てている。年番や総代といった呼び名が多い中で、地域によってこうした呼び名があるのだと改めて思う。
鳥居をくぐると拝殿まで整然と敷石が敷かれているが、その一つ一つに奉納した年とその用掛かりの名が刻まれれいる。大正期から始められ昭和の末に鳥居のところまで達しいて、以降傷んだ石を換えるように毎年の奉納がなされている。地方の一神社においてこうした奉納が途切れることなく続いていることに、鎮守として氏子から篤い信仰を受けている表れのようで感銘を受ける。
創建についての詳しい社記はないようだが、江戸初期に管理していた福聚院の創建が慶長七年(1602)と伝わる。御祭神は湯彦友命、埴安姫命。農業区域の信仰として「榛名様がお守りくださるおけげで、太井は虫送りや雨乞いなどはしたことがない」と言われている。勧請元である群馬榛名神社はその土地柄、雨乞い信仰が盛んである。
村の禁忌伝承に「卵を食べると大雨になるので食べてはいけない」と伝わる。昔大雨の際に知らずに芝居の芸人が卵を食べたところたちまち大雨になったと伝わり、年配の人ほど卵を食べるのを禁じたという。
流石に現在までこの禁忌が守られているとは考えにくいが、おそらく畑作中心の農業区域で養鶏農家に転じることを戒める意味合いがあったのではないかと考えられる。穀物(麦大豆)中心の農業区域にとって養鶏場が増えると収穫に影響すると考えたのではないだろうか。
現在の社殿は昭和五十年の建築でその社殿建設記念碑には若き日の父の名が刻まれている。
こうした父の足跡に出会う度、父の生き方を誇りに思い、自分自身兼職ではあるが神職としての務めを果たしていかなければと感じている。