行田市谷郷にある『大樋跡』。市内52か所に及ぶ忍城史跡の中でも一際人の目に付きにくい場所に建っている。行田市総合運動公園前に広がる水田の水路脇にあり、通りにむかって建っておらず、西向きに設置されているためか近くを通ても見過ごしてしまう。
谷郷の地名は古く中世には谷村、谷の村と書き、その後「谷之郷」とそばれ江戸期後半になって「谷郷村」と称した。「谷」とは低湿な地の意味で、そこに家々が立ち並んでできたことから谷之郷と呼ばれるようになったという。慶長年間(1596)には一八二五石の米が取れたという文献があるという。戦後団地や新興住宅地が増えたが、現在でも春日神社の北西は緑の田んぼが広がっている。
十四代成田顕泰(あきやす)が文明年間(1496-1486)に忍城を築城したと推定されているが、築城に際し農民擁護と新田開発を考慮し、忍の地形を生かして一大貯水池を城の守として縄張りしたという。戦時には自然の水の要塞として機能し、平時には貯水灌漑に利用するという斬新な発想は周囲の豪族たちの協力を得やすかったと考えられている。
星川、利根川の水をこの大樋に集め、第一の貯水池北谷沼に入れ、それを荒井沼と行田町北側に分水し、次に内行田に入れて大沼にため、佐間の天満宮西の樋から沼尻に放水したという。
よってこの谷郷の大樋を締めて、佐間の天神樋、持田側の沼尻樋を開ければ忍沼は干上がり「干沼」となってしまうことから、浮き城の名で馳せた忍城の秘密を握る重要地であった。
十五代成田親泰はこの大樋を隠すために藤原氏の氏神である奈良の春日神社を勧請して谷郷の地に祀ったという。
十七代成田氏長は学芸を愛し連歌の道で歴史に名を遺すほどであったという。天正十五年(1587)氏長は谷郷春日神社へ参拝し武運長久を祈願するとともに拝殿において連歌を奉納している。
むすへ猶霜の花咲神の春 氏長