旧栗橋町は史跡静御前の墓が建つことで知られている。栗橋駅前にはその参道と静御前の伝承を伝える墓碑がすぐそばにあり、観光名所となっている。
白拍子と呼ばれる美しい舞姫であった静御前が、その後平家追討で名を挙げた源義経の寵愛を受け、兄頼朝の迫害から逃れるため運命を共にしながら、奥州に逃れた義経の最後を聞きつけたのが近くの下総国下辺見付近(古河市)であったと伝わる。義経の菩提を弔うために京都に戻る途中、度重なる苦難に倒れたのがここ栗橋であったという。
この静御前の物語は悲しくも人々の心を掴み、今日でもその墓石が残るほど有名になっているが、この静御前の墓石の近くに、もう一つの悲しい伝承が残る小さな神社がひっそりと佇んでいる。
昔利根川の洪水に見舞われた際、水が引かず村人は困っていたが、そこへ通りがかった旅の母娘を人柱として神の怒りを鎮めようとしたという。母親は「せめて最後に一言言い残したい』と懇願するも、村人は聞き入れず母娘を濁流へと投げ込んだという。すると洪水の水は瞬く間に引いていき、村人たちは難を逃れた。以降その母子の霊を慰めるため祠を建てたのが、この一言神社であるという。ただし「風土記稿」によれば「祭神詳ならず」とある。
記紀神話において一言主命がが雄略天皇大和国葛城山で出会ったという故事が残されており、一言であればいずれの願いもかなえてくれるという神であるという。さらに利根川対岸にあたる茨城県境町猿山と茨城県水海道市大塚戸にも一言神社があり、同様の伝承が残っているという。
利根川流域近くの栗橋では、近年まで大雨洪水に悩まされていた一方、昭和30年代までは雨乞いの行事が盛んにおこなわれていたという。治水に悩みながら、作物に必要な雨に悩むことも多かったのだろう。『延喜式』臨時祭条という記述の中には祈雨神八十五座というのがあって、大和国の一言神社が列しているという。
雨乞いは作物の被害が出そうになるとおこなわれ、まず氏子一同が当社に集まり、若い衆二三人がご神体の御幣をもって東の香取神社まで向かった。その際必ず宝地戸池を泳いだという。
寛保二年(1742)の洪水の際利根川は栗橋関所を押し流し、濁流は激しく地面をえぐったため池として残ったという。現在も「宝地戸池」として残っている。
香取神社へ到着すると御幣は本社へ納められ降雨が祈願される。一言神社は香取神社の居候となり心苦しいから、七日以内に雨を降らせるのだという。雨が降るとお礼参りをし、御幣は一言神社へ戻される。ただしあまりの効果に年に二回行うと大雨になったという。
一方静御前にも「雨乞いの舞」に関する伝承がある。むしろこちらのほうが広く知られている。
後白河法皇は日照りが続き国が弱った際、百人の白拍子を集めて雨乞いの舞を舞わせた。当時十五歳であった静御前が最後に舞うと、空がにわかに曇りだし降り出した雨は三日三晩続いたという。後鳥羽上皇はその才能を称賛し褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を贈ったといい、現在古河市の光了寺に残るという。
水神としての信仰があった一言神社。人柱となった母子の最後に言い残したかった言葉は何だったのか確かめようもないが、静御前の伝承と結びついて現在でも地域の信仰として大事に守られている。現地では一言神社の案内板はなく、社殿と神社の扁額がその名を伝えるだけである。