幸手市に登録がある神社57社(埼玉県神社庁)のうち25社は香取神社である。同じ埼玉東部において私の地元行田市には香取神社は登録がない(実際には末社等であるのかもしれないが)。香取神社の御祭神は経津主命であるが、これは日本書紀においてのみ国譲り神話で出てくる神様で、古事記においては見当たらない。幸手市自体が子供のころからあまり縁もなく訪れることもなかったためか、香取神社は未知なる神社のように感じていた。
利根川を渡るとこの香取神社はさらにに多く、文化圏の違いを感じざるを得ない。但し延々と広がる田園風景を見ると同じ武蔵の国。非常に親近感が湧いてしまう。
宇和田には上下があり当地は上に当たる。宇和田の『宇』は接頭語で和田は『輪田』であり輪状の平地を表す。大輪田の泊といえば神戸の古代の港で平家の繁栄を担った港。これも同じ転じ方。しばしば利根川の氾濫を受け開発が遅れたのどかな場所といえる。
口碑によれば甲斐武田氏の家臣でだった小河原氏がこの地に落ち延び、同家の氏神として祀ったと伝わる。『風土記稿』によれば『香取社村鎮守也金剛寺持末社八幡』とある。
境内に残る改築記念碑は大正13年のもの。前年の大正12年に起きたのが関東大震災。また昭和22年の台風の洪水によっても社殿が流出したと伝わる。(カスリーン台風)
幾多の災害を乗り越えて現在社殿は整備され、浅間様も見事な富士見塚の上に建っている。
この浅間様には漂流伝説が残っていて、昔大水で浅間様が水に流されてこの先の西関宿に流れ着いたという。そこで西関宿の人々はこの浅間様を祀り村の鎮守としたという。今でも西関宿に浅間様があり、この地の浅間様は『古浅間』と呼ぶそうだ。
氏子の小河原家はもともと当社を氏神様として祀っていたという。正月には本家に集い風呂を焚いて身を清めたともいう。これを六日間続けたのは、もとは小河原家は6軒であったことにちなむ。また同家では毎月13日と23日には塩を摂らないといういう。これは日待ち信仰によるもので、所謂禁忌信仰を通じて一族の健康と繁栄を祈願すものと考えられる。但しこうした記述は昭和末期に編纂された埼玉の神社によるもので、令和となった現在も続いていつかは不明である。しかしながら戦後から高度成長期を経て、地域や家族観が大きく様変わりしてきた中でも、こうした様々な風習、習俗が代々受け継がれてきたことは間違いなく、令和となって疫病が蔓延するなど、歴史的に古い過去の人々の営みが見直されていることが重視されるようになり、こうした記述を読み直すこともまた大切なことではあると感じている。
埼玉東部と県北東部の風習信仰の違いなど比較しながら郷土史探訪の旅を続けていきたいと思っている。