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旧中仙道を鴻巣市の駅前を過ぎて北本方面に走ると、多くの雛人形店が立ち並ぶ。その街道沿い、上谷新田は現在の地名が鴻巣市人形。天宝年間(1644ー48)にかけては上谷村と称した。
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現在の境内地には人形町の自治会館がたっており、地域の中心部であることが伺える。
『風土記稿』によれば浅間社、天王社、稲荷社、八幡社が記され、いづれも金剛院の敷地に祭られていたという。
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金剛院は京都智積院の末寺、真言宗の寺院で、中興の祖とされる海栄が、文禄元年(1592)に宇佐八幡宮に参拝し分霊を戴き当地に勧請したと伝わる。
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時代が下り明治期の神仏分離政策により金剛院の管理を離れ、社各制度では無各社の扱いとなる。明治四年上谷新田は上谷村に合併し、村社は旧上谷村の氷川神社となるが、合祀を回避するため、氏子総代等が北足立郡役所に「八幡神社存置願い」を上申し聞き入れられた結果、現在に至る。御一新による神社の合祀政策は廃藩置県と並ぶ新政府の重要政策で、各村の租税管理や制度設計にあたり、社各制度を用いて各村の統制を図ることから、地域によっては反発も大きかった。殊に合祀によってお社を失いかねない村区域は、制度に反対するところも多かったという。
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祭りは元旦祭、厄よけ祈願祭、浅間祭、夏祭り、例大祭等である。
厄よけ祈願祭の「お獅子様) は騎西の玉敷神社から借り受け村回りをしたという。
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浅間社が現在の神社境内地に移されたには平成になってから。記念碑も建っている。
「風土記稿)によれば化政期(1804ー30)における当地の家数は六十戸。中仙道に軒を並べ農業閑静期に雛人形を製造し商いとしていた。「鴻巣雛」として名声を博していった頃である。
雛人形の歴史は古く天正年間(1573ー92)に京都から伝わった土偶製造技術が後に練り物による小雛製造へと変化していったという。現在鴻巣市天神に鎮座する生出塚神社には天満天神座像が伝わっており、その胎内に納められていた木片の墨書きには京都五条烏丸通りの大仏師、左京法眼の弟弟子、藤原吉圀が貞享四年(1687)に鴻巣町で作ったと記されている。
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寺社の管理、宇佐八幡からの分霊、古く鴻巣雛人形の発祥を伝える貴重な神社で、現在も本殿の向きは中仙道を望むように西向きに建てられている。もう一つの「西向き八幡」は市内の喧騒を離れ、北本への玄関口に佇んでいる。