皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

初詣の起源は

2022-01-18 22:56:25 | 神社と歴史

社家に生まれてこの方、初詣は行くもではなく迎えるものとして育ってきました。なぜなら自宅が鳥居のなかにあるからです。参りと詣での違いはなんなのかとふと考えていました。基本的に神社には参拝といって畏まって参じ(身を寄せる)、深く頭をさげ(拝)誓いをするものが本来のすがたと思います。詣でるとは言偏に旨いと書きますから、神の前で願いや祈りを口にする(祝詞をあげる)ことの意味なのでしょう。旨い即ち喜びの表現です。魚遍になればすしと読みますね。

初詣についての解説を読むと、昔は家長が大晦日から元旦の朝にかけて氏神様にこもる習慣があったそうです(年籠り)やがて除夜の鐘を聞きながらお参りする除夜詣で、元旦朝にお参りする『元旦詣で』と広まって行ったそうです。
そもそも江戸時代までは交通網が徒歩や籠しかありませんから、近くの氏神さまへお参りするしかありません。元旦にその年の恵方のお宮へお参りする恵方参りというのもあったそうです。

明治維新となり国家的事業として鉄道の開通が始まります。はじめて通ったのは新橋横浜間であったことはよく知られています。(受験の問題でよく出る項目です)多くの人々が鉄道網の整備によって一度に移動することが可能になってから初詣が一般化されたそうです

『初詣』ということば自体が明治になってからの言葉だと言います。初見は明治18年(1885)の万朝報。川崎大師への正月参拝を指す言葉として掲載されたと紹介されています。
関西においては恵方参りそのものが正月ではなく立春前の節分に行われることが多かったそうです。今や全国的に食べられるようになった節分の恵方巻きも関西圏を起源としていますね。
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皿尾城跡

2022-01-18 18:16:13 | 皿尾城の空の下

永禄四年(1561)三月上杉謙信輝虎は再三忍を攻め皿尾の地に築城し、木戸監物入道玄斎に守らせたが成田氏と通じたため、謙信は怒って城を焼き払うと『北越軍記』にあるが今は外張という地名を残すのみである。
昭和五十四年三月 建立行田ライオンズクラブ
         協賛 新井 福次

忍領行田市内に上杉謙信の築いた城があったことを知るひとは少ない。皿尾の久伊豆大雷神社の裏手にある土塁の名残がわずかに残るだけである。城郭領域は広かったが、いわゆる砦に近い物だったのだろう。『関八州古戦録』『成田記』に『皿尾城』と記してある。
天文二十二年(1553)上杉謙信は五千の大軍で関東に入り、忍城を攻めた。城主成田長泰(16代)は用意周到で、小田原の援軍を待つようにして戦いを避け、上杉も越後へと兵を引いた。

二度目は永禄二年(1559)年のことで謙信の電光石火の焼きうちにより、長久寺遍照院の薬師堂、雷電神社等皆兵火に焼かれたという。
その年謙信は九万の大軍勢を率いいて小田原を攻めたが、関東管領就任の祝いのれ列に置いて成田長泰のみが馬上の上から対面に望み、謙信が激怒したことは、複数の軍記に記されており、成田と上杉の関係を非常によく伝える記述である。
関東の国衆の有力者として、越後上杉の支配下には入らないという意思表示である。
関東の諸侯はこれにならい、それぞれ居城に引き上げており、上杉も越後へ戻る際、皿尾付近に砦を築き、成田を急襲したという。
大沢俊吉先生の行田史跡物語によればこのとき皿尾城を守っていたのは羽生城主木戸玄斎とされているが、近年の研究において、当時皿尾城に入ったのはその父木戸伊豆守忠朝とされている。また攻め入ったのは皿尾城方ではなく、成田の方でその急襲を聞き付けて援軍に岩槻城太田資正が駆けつけたとあるが(成田記)、おそらく助けに入ったのは木戸忠朝の兄、羽生城城主広田直繁であったと考えられている。


いずれにせよ忍城のわずかばかりの距離に、上杉謙信の勢力下の城(砦)が築かれて、成田軍と戦ったことは史実である。
上杉にとってこの地を征し、関東の覇権を握れたならば戦国の歴史も変わっていたはずであろう。
今はただ夕日に照らされる美しい田園の風景が残されるだけである。
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