皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

須賀城跡

2022-01-17 21:17:45 | 行田史跡物語

忍領行田市内には、三大城趾があることを知る人は少ない。
ひとつは言うまでもなく、戦国期最後まで豊臣方の猛攻に屈せず、落ちなかった城とし名を馳せた成田忍城。
更にはその成田忍城の支城として、またある時期は敵対する羽生城の出城として成田を追い詰めた皿尾城。
そして利根川堤に沿うようにその姿を失いつつもその歴史を今に伝える須賀城である。
いまでこそ忍城は三階櫓を復元し、堀を起こし堤を築いて当時とはまた違った形で城らしく立派な姿をなしてはいるが、少なくとも私が中学二年時までは「本丸球場」と言う名の野球場があって、城の姿など全く想像もつかなかったのである。

『吾妻鏡』承久三年(1221)伏見宇治橋で奮戦したことが出ている須賀弥太郎の末裔、須賀修理大夫が忍の成田の家門侍として天正年間に(1550年頃)館を築き、『成田記』に須賀城とある。地形文書にこの一帯と推定される
昭和54年3月 建立 行田ライオンズクラブ 協賛 川島清

吾妻鏡の宇治橋合戦の項には行田ゆかりの武将が多く記されその中に須賀弥太郎、行田兵衛尉、鴛四郎太郎、成田兵尉、五郎太郎とある。
鎌倉殿の13人の時代にかの地で行田周辺の豪族たちが東国から出向いて戦ったのは史実であろう。
それから三百年、天正期忍城が勢力を伸ばした頃、上杉謙信は忍城を攻め、須賀には家門侍として須賀修理大夫が須賀城を築いたと『成田記』に記されている。
天正17年(1589)豊臣軍が関東攻め行った際成田家当主氏長は小田原にいた。石田三成軍が館林から利根川を渡って忍城に向かうとき、川俣から忍領内に入るときには須賀城を焼き、須賀軍は忍城内へと軍を移している。
焼けてしまった須賀城がどこにあったかは定かではないが、現在の長久寺一帯と須賀小学校を城趾として考えるのが妥当とある。
須賀は州加から転じた地名と考えられる。利根の流れに翻弄され、またその水の恵みと共にあった土地だ。
残念ながら須賀小学校もこの春で合併閉校となる。長久寺は堤防の護岸工事にともない一部墓地の移設設置が行われている。
時代と共に須賀城はその姿を変え人々の心にその勇姿を伝えている。
小学校の体育館前に立ち並ぶ墓石に手を会わせながら、この地に生きた人々の思い寄せる、師走の穏やかな午後だった。
(令和三年12月16日登拝)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二十三節気 小寒

2022-01-17 20:51:15 | 生活

正月五日過ぎからが寒の入り。「小寒」「大寒」の二節気を合わせて「寒の内」といって一年で一番寒い一月間になる。寒中見舞いとはこの期間に出す書のこと。

小寒の時期は時に大寒よりも寒さが増すことが多く「小寒の氷、大寒に解く」ともいわれ、転じて物事が必ずしも順序通り運ばないことの例えにも使う。昔から寒の内に体を鍛えると丈夫になると言われ、寒中水泳や寒稽古などが風習として残る。

兼務社春日神社の新年初祈願際は毎年この時期に執り行われる。年末の大祓いよりも寒さが厳しいと身体が覚えている。先代宮司は寒稽古として小寒から立春まで毎朝大祓を奏上していたことを覚えている。

昔は一年で最初の満月となる一月十五日を正月として祝ったそうだ。それが今の小正月。現在でも小豆粥などを食べて無病息災を願う。正月中に休みなく働いた女性がひといきつくことができることから「女正月」とも称される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする