皿尾村には谷郷地区との間に「駒形」という地区があり、明治維新に成るまで駒形村として村社を有していた。それが「生駒神社」であって合祀政策によって久伊豆大雷神社に合祀されたが、地区の反発があって社殿が戻された歴史がある。今でも登記上は久伊豆神社末社という位置づけとなっているが歴史の上では久伊豆社と同等かそれより長い歴史を有している。
律令期においては流通の整備に馬の生産が奨励され、放馬の土地が早くから開けたことが「延喜式」等に記されている。武蔵国に四牧が開かれ、上質の馬が生産されたことがわかっている。
ここ行田には「駒形」と言う地名が二つ残っていて(持田と皿尾)、牧場地が広がっていたことをうかがわせる。
皿尾村の生駒明神と呼ばれる神社は古くからこの地に祀られ、清水雪翁の「北武八志」にはつぎのような記述が残っている。
「皿尾村にあり、又駒形明神といふ。昔鎌倉のとき、梶原景時検地としてこの辺りを巡回し、馬を留めて休憩せし処なりと。接する隣村谷郷村は東鑑に鶴岡八幡宮武蔵国寄腑状のこと見へたればこれ等のこと証拠なしとて棄つべきにもあらず」
忍城で栄える前の時代のはなしであり、市内の「忍沼」と呼ばれる湿地帯の側にある平原地帯はまさしく馬を放つところに適していたものと考えられる。
現在戦前からつづくわずか八件の家々でこの生駒神社を守っており、年に一度お盆明けに例祭の祝詞をあげている。
よもや今年大河ドラマで梶原景時の活躍を目にすることとなり、長い時代を越えて坂東の後家人と対面できた気持ちで今日の例大祭を終えることとなった。