旧菖蒲町下栢間は町の南西に位置し元荒川を挟んで蓮田市に接し、その南西は桶川市に隣接する。当地の開発は古く「栢間七塚」と称する栢間古墳群に見られるように六世紀ごろにまで遡る。奈良・平安期の集落跡も発掘され、平安末期以降武蔵七党の武士団の一つ野与党の「栢間氏」がここを本貫地としていたという。
天正十八年(1590)徳川家康が関東に入国した際、古参の重臣であった内藤四郎正成にこの地を与えている。正成は当地の西部に陣屋を構えその敷地内に諏訪神社を祀ったという。内藤正成は武勇に優れ幼いころより家康に仕えたとされる。「どうする家康」でも描かれている、今川家に属していたころの大高城兵糧入れにも同行。三河一向一揆では一揆方についた渡辺高綱を矢で射抜いたとされる。
武田との戦である三方ヶ原合戦では長男を失いながら奮戦し、高天神城攻防戦でも武田軍からその矢の威力を恐れられるほどの活躍を見せている。こうした武田軍との攻防もあってか、諏訪明神を勧請したのかもしれない。
但し関東入領後、正成にとって江戸から離れたこの地を拝領したことは不遇であって、実際には徳川治世となってからの配下の武将による抗争で武断派の内藤正成が政争に敗れたことを示しているという。当時開発の進んでいなかった武蔵国の内地に押しやられたのであろう。
徳川十六神将に数えられながらその活躍をドラマで見ることは今のところない。
現在の本殿は内藤家の管理していた山林から伐採した木材で建てられたとされる。改修されたのは明治三十八年。
武田の守護神である諏訪明神は五穀豊穣の神としても信仰される。
県内主要街道から離れた菖蒲の元荒川沿いに、徳川十六神将に纏わる諏訪神社は今も当時の様子を伝えるように建っている。
徳川二百年の太平の世は内藤正成の活躍なくしてはなしえなかったのかもしれない。