天平十五年(743)聖武天皇は高僧義澄東国の巡視に遣わせたが、当地の弥陀堂の蓮花を称賛して、弥陀堂に「蓮田村蓮花院弥陀堂」の名称を与えたと伝え、これが「蓮田」の地名の由来とされている。現在人口6万人余りの小都市蓮田の歴史は地名でさえも千二百年を優に超える町である。天平15年(743)は日本史の教科書では「墾田永年私財法」「廬舎那仏建立の詔」が出された時で、奈良時代末期社会的混迷が広まりつつある中で、東国の開拓に活路を見出そうとしていた時代である。
一方西城という地名はもちろん古い城があったところで、源平時代に戦に敗れた落ち武者が住み着いて開発したと伝わる。
現在公園として整備され春には美しい桜が満開となる。城そのものは「平山城」という室町時代の城跡があり、その西の沼地であったところに当たる。「風土記稿」によれば城の城内には久伊豆、第六天社、天満社の三社があったが、明治期になって天満社が村社として残っている。京都の北野天満宮から勧請されたと伝わる。遡って大正二年に無各社であった第六天社へ天満社を合祀している。ここで社名を天満社に改称しているが、境内地の広さを考慮したうえでの合祀とみられている。
御祭神は菅原道真公と第六天社の祭神であった面足命、謌志古泥命の三柱。
昭和五十六年竣工した社殿はその後間もない昭和六十一年二月に不審火によって消失している。現在の社殿は翌六十三年に再建されたものだという。こうした火災消失時の氏子の結束力というのは日本人の強みであろう。地震など自然災害にもまれてきた民族としての強みだ。「埼玉の神社」の記述を拾いながら近年で火災消失しながら復興した神社は数多い。
境内地周辺はかつては周囲に大木が杉が茂っており鬱蒼とした杜であったが、特に県道大宮栗橋線開通によって社地の多くを提供することとなり、参道の長さも半分以下になったしまったという。
令和の御代を迎え社会環境も激変している。人口減少化は顕著となり、高度成長期からバブルの時代に建てられた商業施設も多くは老朽化している。新たな産業が生まれる余地は少なくなり、少ない利益を減りゆく人口で奪い合っているのが現状だ。現に市内の商業施設も一様に老朽化が目立つ。(この春私はその一部に身を置いている)
天平年間から続く歴史からすればここ数年の衰退は微々たるものなのか、それとも消滅可能性都市の道を歩むのか。その行く末を肌で感じながら日々過ごしている。
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