旧吹上町大芦は元荒川と荒川に挟まれた低地で集落自体は旧川道の自然堤防の上にある。かつて当地の南西には大芦河岸があり、日光脇街道の渡船場としても栄えた。
村の開発は年代は明らかではないが、慶長十二年(1607)の「足立郡箕田内大芦村御検知帳」が残る。
当社は大芦村の鎮守として祀られて来た社で「風土記稿」には「氷川社、医王寺持ち」と記される。江戸期に別当だった医王寺は真言宗の寺院で開山は賢秀。二世の秀英が貞享三年(1686)に没した記録が残っている。明治六年に村社となり区内の各社を合祀(稲荷社、雷電社、八坂社、神明社等)
社蔵の算額が鴻巣市の指定文化財となっている。嘉永三年(1850)関流の小林要吉郎勝栄が奉納したもので、一門は広く大芦、吹上、明用、箕輪など付近の各村にわたり、和算の上達祈願をこめたものとして知られる。和算とは明治以降産業科学と結びつくことがなく西洋算術にとって代わられているが、江戸期においては非常に高度な算術として日本独自の発展を遂げている。
現在境内地には大芦集会場が建てられ、氏子の行事に活用される。祭りは元旦祭、祈年祭、お獅子様、夏祭り、秋祭りがある。お獅子様は地区の年番が参列する。かつては舞の後村境にお札も立てた。また夏祭りには神楽も奉納したというが、現在については不明である。
近くを流れる荒川沿いにはコスモス会館ができていて、野球場など多くの施設が活用されている。大芦橋は東松山と行田鴻巣を結ぶ幹線道路となっていて朝夕の通勤またトラック等の運送車両の多くが通る界隈である。日光脇街道の面影を残しながら今なお多くの田んぼも残っている。
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