埼玉県川口市は人口60万人を超える東京のベットタウンとして大いに栄えている。政令指定都市を除けば全国2位の人口密集都市である。川口の地名は当地の南を流れる入間川(現荒川)に合流する芝川の河口あたることに由来するとされ、鎌倉室町期には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』や『義経記』から知ることができる。当地は日光御成街道の宿場として栄えたが、中世には鎌倉街道中道、古代には東国と陸奥とを結ぶ「奥大道」として古代から重要な街道であった。
当社は明治四十二年川口神社と改称するまで氷川神社と称した。主祭神は素戔嗚尊。天慶年間(九百四十年頃)大宮氷川神社から勧請されたと伝わる。
当社は古くからこの区域の鎮守として崇められてきたが、特に江戸期の奉納品に祖の信仰を垣間見ることができる。
八代将軍徳川吉宗による享保の改革の一つの政策に見沼田んぼ開発が挙げられる。幕府勘定奉行井澤弥惣兵衛の部下であった杉島貞七郎保英は当地の出身で、享保十八年(1733)見沼大用水の工事安全祈願及びお礼参りに神鏡を奉納している。(現存し現在指定文化財)
川口の町が鋳物で発展してきたことは知られているが、その歴史は室町期まで遡るという。もちろん鋳物に適した粘土や砂が採れたからだ。境内に鎮座する金山神社は鋳物業に関わる人々にとって重要な金属技巧の守護神金山彦命を祀っている。また境内には包丁塚も建てられ、金物道具を供養する風習の伝わる。包丁塚の揮毫は福田赳夫元総理。
川口市は四百年以上続く鋳物の街として発展を遂げてきたが、現在ではキューポラよりも高層マンションの目立つ東京のベットタウンとしての側面が圧倒的だ。しかし鋳物工場の溶解炉には必ず金山様の神棚が祀られ、多くの個人宅には火の神、商売の神として稲荷の祠を祀ることが多いという。
時代と共に町並みは変化してしまうが、こうした町を支えた産業の文化がわずかながらでも残り人の記憶として伝わっていくのだろう。
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