皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

中山道桶川宿

2019-02-16 16:43:16 | 史跡をめぐり

桶川宿は中山道六十九次の内江戸日本橋から数えて六番目にあたる。日本橋からの距離が十里十四町(約40km)で江戸を出た旅人が一日で歩く道程にあたり、上尾宿と並んで宿場町として絶好の位置にあったとされる。マラソンの距離にほど近いという。

寛永十二年(1635)に設置され当所58件であった宿内家数は紅花などの染料や農作物の集積地となってから江戸後期には350件近くに達し、宿場町として大いに発展したという。

加賀藩前田家を始め多くの大名が参勤交代において桶川宿の本陣を定宿としていたと伝えられている。

天明ー寛政年間(1781-1801)にかけて出羽最上地方の紅花の種が江戸商人によって桶川にもたらせれ、紅花栽培が盛んとなり、桶川宿において紅花を扱う商人が多くなったという。

中山道沿いに残る矢部家の住宅は明治期に建立された土蔵造りの店蔵で、市指定文化財となっている。矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)と称し穀物問屋を営んだという。また紅花の商いも行い、桶川稲荷神社に残る「紅花商人寄進石灯籠」にその名を刻んでいる。

桶川の紅花は最上に次いで全国二位の生産を誇っていたという。また出羽国最上地方に比べて気候が温暖であったため早く収穫できたことから紅花商人からは「早場もの」として重宝されたといわれている。

中山道から一本奥に入った清閑な住宅地に稲荷神社が祀られている。御祭神は宇迦御霊神。近世以降商売繁盛の神として信仰を受ける。かつては他の宿場町同様遊郭や飲み屋が多くあり、夕方その女性が店に出る前に参拝したという。またその艶やかな姿を眺めようとお宮に参る男も少なくなかったという。

 また中山道をまたいで神社と反対側にある曹洞宗大雲寺の境内には「女郎買い地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩が鎮座する。

宿場町特有の飯盛女と呼ばれる女性が大勢いて、女色に溺れる男たちを飯盛り旅籠に引き入れていたところ、土地のお地蔵さまが女を買いに出かけているらしいと噂が立った。耳にした寺の住職は困り果てるも、地蔵の背に鎹(鎹)を打ち付けて鎖で縛って動けなくしてしまったという。実のところ一人の若い僧が遊郭に通いつめ、坊主頭を隠して人目を忍び歩いているところを、寺に帰るところを見つかってしまい、住職に知らされてしまった。翌日になると鎹と鎖で縛られた地蔵様が立っていたのである。住職は煩悩多い若い僧にその罪を地蔵菩薩に被っていただき、その僧を改心させたというのである。

 地蔵の背には今も鎹が残っているという。

 

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