皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

幸手宿 一里塚跡

2020-02-18 23:16:08 | 史跡をめぐり

『風土記稿』によると「幸手宿は田宮庄と唱え、古くは田宮町と号す既に正保二年(1645)国図等田宮町と記し薩手と傍記す」とある。幸手の地名は一説にアイヌ語の「乾いた原野」とあるが詳しくはわからないという。仲町、荒宿、右馬之助町、久喜町、牛村を合わせて「田宮の町」と呼び幸手と通称していたという。

 一方で日光街道整備前から幸手は利根川水系による河川船運と鎌倉街道の人の往来で交通の要所として栄えていた。中世においては古河公方の重臣幸手一色氏と縁が深く、軍事的にも重要な場所であった。

 慶長九年(1604)徳川家康により五街道が整備され、主要街道には一里塚が築かれる。日本橋を起点として一里(4km)ごとに五間(9m)の四方の塚であったという。また塚には榎を植えて目印にしていた。榎は根が深く広がり塚が崩れることを防いでいた。

一里塚は重要な路線標識で荷役人の賃金計算の元になったという。戦国乱世から泰平の世に移り変わるうえで、戦支度よりも経済優先の政策に変化しているのだろう。

幸手宿は江戸期には本陣、脇本陣に加え旅籠27軒を抱える日光街道三番目の規模を誇り、将軍家による日光東照宮参拝の道である日光御成道との結節点に当たり、宿場町として大いに栄えたという。



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