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羽生市新郷は日光裏街道の通る利根川沿いの交通の要所にある宿場町であったそうで、五十日(ごとうび)には六斎市が立つ商業のまちであったという。賑わいのあった上新郷の鎮守が愛宕神社で、田園地帯を行田方面に抜ける地域が下新郷に当たる。古くは会の川の自然堤防があったところで、現在は国道125号バイパスに多くのトラックの往来がある交通量の多いところとなっている。
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社記によれば「新井美成なるもの中国勝地に参拝し、本村中耕地に小池あり、十七日祈祷するところ菅公の霊状を夢見種々の奇端在りしを歓喜して自ら社殿を勧請鎮守と崇敬せり」と記されている。本殿に安置された天神座像底部には 「武州忍領下新郷大光院講中寄進享保十四年」の墨書きが残る。
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古くから学問の神として信仰され、受験や入学等の学問成就の願いが絵馬にかけられる。現在でも地域の子供会がこうした絵馬の奉納を続けているようで拝殿南の絵馬かけには子供たちの願いがそれぞれ納められていた。
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社殿正面の編額には天神社ではなく菅公の名が記されている。天神様は御霊信仰から始まっており、祭りを好まないことが多い。疫神避け信仰の八坂様と対照的である。当社でも正月、春秋のお日待ちの参列はあるが余興は一切行われなかったという。また口伝に芝居をすると大雨が降るとも伝わる。こうした伝承は東の愛宕社にも残っているそうで、祭日も定められていないそうだ。
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境内入り口の石灯籠は昭和七年奉納で、日露戦争後の国威掲揚時に奉納されている。この様式の明神鳥居は各地に見られ、当時の様子が伝わって来る(私の本務社にも残っている)
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昭和の古きよき時代に整備されたであろう境内地の様子が現在も変わることなく見ることができる。氏子の世話がよく行き届いているようで感心する。恐らく昭和の高度経済成長の頃に新興住宅が増えた場所で、当時は子供たちが境内で遊んだであろう様子が見てとれる。
羽生市の中心からは遠い地区で行田市の下須戸地区と隣接するが、古くは同じ忍領であり、天神信仰のもと子供の教育に熱心であったことがうかがえる。時代が変わっても子供の教育に地区社会で向き合うことの重要性を見るようで、地域の神社の役割をいまに果たしていると感じてならない。
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